セックス・コラム


更新:2015年4月

!! 謹告 !!
気がつけば、このページのコラムは8年近く放置したままだった。
多忙のため、頻繁に書き込む約束は出来ないが、ポチポチ再開する。
時代感覚も交え、極力今日的テーマなコラムにしたいと考えている。











15.04.15 陰毛の扱われ方
07.11.16 「セックスをリードされたがる男達」  先日「日経WOMAN」の白書を読んでいて、やっぱりそうなんだという感想を持った。白書によると、イマドキ男のセックスに対する自信のなさが歴然としている事が判った。
まず男がセックスを「リードしなければいけない」のが苦痛だと思っている。その事自体がプレッシャーになるという。どのようにしてエッチに持ち込んで良いのか分らないらしい。つまりホテルに誘うとか、自室でエッチモードに持ち込む方法が分らないということのようだ。
また、仮にエッチモードになったのは良いが男主導で、どうやって服を脱がせるか、風呂には一緒に入ったとしてどうすれば良いのだろうか?
そこまで何とか上手く行ったとして、どうやって女性を歓ばせれば良いのか皆目見当もつかないと嘆く。女性から求められ、行為中もリードして貰えたらどれほど助かるか、イマドキ男はそんなことまで望んでいるようだ。
イマドキ男としては「受身であれば傷つかない」という思いがあるらしい。結局は「相手を満足させられるセックスが出来るとは思っていない」その為の防御本能が働くようである。女性が何を求めているか分らないので、単純な行為をひたすらすることになり、自分とのセックスを楽しんでくれているのか不安になるらしい。出来たら「セックスでも懐の深い大人の女性にリードしてもらいたい」(つまり母親のように何処までも慈愛に満ちた女性)ということのようだ。
このような男たちの誕生は他者とのかかわりを拒否することが根底にあるようだ。自分が変わるのが怖いといういびつな21世紀的若者の意識を見ることができる。自分が変わらないで居る為には、受身でいることが大変重要な条件のようである。
このような男と結婚したとしても、子供は出来る。しかし、夫婦のコミュニケーションは齟齬を来たす危険は大きい。30代後半からの夫婦のセックスレスは当然の現象になるだろ。既に30代の20%近くの夫婦がセックスレスだというデータもある。夫はAVやロリータ系の写真集などでマスターベーションを行い、妻側も自分で性欲を処理する手段を講じることになる。
人妻との不倫に詳しい人物A氏に聞いてみると、子供が小学校高学年になり子育てが一段落した時、妻はパートに出るとか自分の趣味を見出したりと、昔馴染んでいた世間という世界に戻って行くのだそうだ。この時点が、ママでしかなかった妻が先祖帰り(女)になる瞬間だという。
そんな状態の人妻に、優しく接する感性の似通った男が現れたりすると、これはもう時間の問題で不倫が発生する可能性が高いらしい。
A氏が言うには、こういう状況の人妻の多くは、夫が自分のことを女として扱っていない不満を持っている。家族としては仲は良いのだが、男女としての会話はほとんど無いという。
このままおばあちゃんになってしまうの?このまま何もしないでいるということは、お定まりのオバチャンロードをまっしぐらに歩く自分が想像できてしまう。しかし、最近の人妻たちはセックスに関する快感情報を知っており、セックスに関してAVと風俗程度の知識しかない幼稚な夫との温度差は大きい。
まして女性の生理的終焉まで後十年、こうしてはいられないというか、そういう淋しく哀しい気分に襲われる人妻が現れるのはごく自然である。
わたしも女としては、秋に差しかかったのだという思いはつのるであろう。勿論、だからといって全員が前向きに不倫相手を探すとは思えない。ただ何となく少女時代のような夢想の世界を持つようだ。
出来ることなら、夫と再び愛を語り、愛し合い、深い快感まで至りたいと思うのだが、夫の意欲が同じレベルになることは稀なようである。こうして、人妻は世間を何とはなしに彷徨うことになる。不倫に走ってしまう環境は現在の日本の夫婦関係に潜在的にあるようだ。
だからといってその都度、家庭が崩壊することもないようである。特に妻を家政婦的立場に追い込んでいる夫は、まず気づかないそうである。意外に子供が気づく心配をする人妻が多いらしい。
おそらく、今現在の40歳前後の人妻がそうであるとするなら、これから先何が起きるか恐ろしい絵図が浮かんでくる。
人間同士の関係の希薄さは世間に止まらず、家族内にも浸透していくのだろう。最近の2,30代の男たちは、冒頭で述べたようにSEXや恋愛に前向きではない。しかし、女の方はどんどん前向きな傾向があり、それらが40代前後を迎えたときは、前向き度はピークを迎える。どういう世界というかマーケットが展開されるのだろ?
概ね後十年、俺であれば65歳。何とかギリギリの肉体を維持しているだろうか?いや相当に無理がある。やはり55歳くらいの男と40歳の人妻の図式は変わらないのか?いや違うな、40歳前後の人妻と20代の男という図式の方がリアルかもしれない。
もう俺たちは消え去るのみか〜。少々寂しい気もするがこの世は順番、潔く消えるのみだ(笑)A氏などは、「大丈夫だ。今度は脳に効く勃起薬が開発されるはず」と息巻いていた(笑)しかしね〜、一部だけ元気溌剌でも、他が皺くちゃでは様にならない(笑)
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07.06.02 「サポ」というもの(1) 「サポ」「サポート」「援助交際」「援交」、出会いサイトではこれらの言葉が多数行き交っている。これらの言葉と同義的に「割り切り」という言葉も多く見られる。たまに十代と見られる女性の書き込みもあるが、このほとんどが女子高生であることは想像に難くない。筆者としてもこのようなサイトと関わりあった以上、「サポ」つまりは「売春」なんて冗談じゃないと毛嫌いしてばかりもいられないと思い、この「サポ」なるものの実態を知るべく潜入ルポを敢行してみた。
「淫行条令」に抵触することは避けなければと、10代はすべてスルーすることにして、先ずは20代にアプローチしてみた。
25歳に嘘偽りの無いナイスバディー「恵比寿・ゴム付き・ホ別3」のA嬢と路上で待ち合わせ、いざホテルへ直行。ホテルに入ってからのA嬢の動きをみるとこれは完全なプロである。惜しげもなく見事な裸体を見せつけ、シャワー浴びてくるからと前金を要求。ほうほう、こりゃ只の売春婦じゃないか!ふざけるな!そうは言っても3万の出費、出来る限りのことはしてみないことには癪というものだ。ところがこれが意外に意外の美味、堪能したのは良いのだが、事が終わるやいなや、バスルームに直行。「これから買い物あるから帰るね、またメールして」「少し残って寝ていく、だったらフロントに言っておくから」何とも手際の良い話、正味三十分程度味も素っ気もありゃしない始末。これは完全に「サポ」イコール「売春」だ、潜入ルポにもなりゃしないお粗末である。ホテル代含めて約4万円の出費、余程女日照りか酒にでも酔わない限り、あり得ない無謀な取引だった。このケースは完全に「サポ」は「売春」という事。
どのメッセージを見ても似たりよったりでウンザリ気味だったが、このままでは4万をドブに捨てたも同然、潜入ルポらしき体裁くらい整えたいものである。明るく元気溌剌なメッセージを避け、ワケアリな女性に目を移してみた。
発見!「赤ちゃん一緒でも良いって優しい方と割り切りで、20代後半の普通の主婦です」これは中々のターゲット、まさかこれでベテラン売春婦が出てくるはずはないだろう。指定の郊外の駅まで車を飛ばして行ってみると、予想通りの普通のママが赤子を抱いて待っていた。どこかオドオドした感じが好感。未だサポート金額の話をしていなかったが、敢えて相手が確認しないのに、こちらから言うこともないだろうと、近場のホテルに直行。先にお風呂に入っていて欲しい、それまでに子供寝かせつけるからとママさん屈託がない。
そうそうこの時点で重要な事を一言。「サポ」であろうと「援交」であろうと、相手は見ず知らず、手癖の悪いのも多いだろうから、身分の証明が簡単に出来る免許証、保険証、クレジットカード、名刺の類はご法度。家に置いてくるか、車のトランクにでも投げ込んでおく方が無難である。渡すお金+ホテル代以外は絶対に身につけておかないことが肝心、出来たら携帯も持ち込まない方が良いのだが、筆者は仕事の都合上持ち込んだが、キーロックしておく程度の注意は最低必要だろう。され風呂から出てみると、ダブルベットの真ん中で赤子は母乳をチュパチュパ、当然豊満な胸が目に入る。「もう少しで寝付くから、タバコでも吸っててね」たしかにしばらくすると、赤子は寝息を立て始めた。B嬢はすかさず服を脱ぎ捨てると、「落ちそうになったら、支えてね」と全裸で子供の頬を突くと、バスルームに消えた。顔は中レベル、体は多少ポチャだが下腹に肉がつくほどではなく未だ若さの名残があった。五時間近く一緒に過し、コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチを頬張り、B嬢の身の上話、子供自慢、二度目の旦那とのSEX等など話してはヤリ、話してはヤリ。最後には乳首を含ませた状態で横向きから、B嬢はよがり、赤子は乳首を咥えてご満悦、俺の顔を見つめてる。別れ際に、2万円渡すと「こんなに良いの?1枚でもいいよ」だって、もう一枚渡したい気分をグッとこらえて別れる。B嬢とはその後も定期的に逢瀬を重ねるが、その都度一枚。これこそ「サポ」なのかもしれない、私はそんな気がした。可愛い女、好きな女が多少のお金に困っている、だから当座の手助けをする。そういう意味では「サポ」の王道相場は1〜1.5なのではないかと自己基準を定めた。
短時間で2〜3万はこれは「サポ」ではない、「売春」だ。勿論、金が絡めばすべて売春という基準もあるにはあるが、結婚は法で定めた売春かという議論にまでなるので、あくまで自己基準という話にしておこう  (2)へつづく
 
07.06.06 「サポ」というもの(2) さて自己基準に過ぎないが「サポ」と「売春」の境界線を見定めた筆者は、変わったメッセージに視点を変えてリサーチすることにした。
その前に、掲示板などに出てくるスラングというか略語のようなもの語彙を解説しておこう。また、待ち合わせる街によっての趨勢のようなものも解説しておく。
「割り切り」:当然単純に割り切ってエッチをしてくれるという意味ではない。サバサバと一時の自由恋愛をしましょう、だからお小遣いをくださいねという意味。
「サポ」:1で話したように、「支援してあげる」という額から、「売春」というものまで幅が広い。概ね売春のプロは小一時間で3万円を求めるようだ。
「愛人」:定期的に会える「サポ」を望んでいる。しかし、昔の妾のような旦那への貞操観念は乏しく複数愛人契約をしていると考えられる。一般的に月三回程度で20万円と高額な要求が多い。
「プチエッチ」:車の中などで、手マンをさせたり、オッパイを触らせするサービスで最終的にはフェラチオを行う場合が多い。
「中だし」:コンドーム無しのエッチを行い、文字通り中で果てる事。妊娠リスクはないから許容するのだろうが、感染症のリスクはつきまとう。
「生」:コンドーム無しのエッチが可能。ただし、感染症のリスクはつきまとう。
「3P」:女性ふたりを相手に行うエッチ。女性の友人どおしなどがお小遣い欲しさに行う場合が多いようだ。特に日中会う場合は人妻が多いようだ。ただし、並べて楽しもうという助平心は無理なようで、交代でという要求が主である。
「お食事デート」:これはエッチな関係なしに、ファミレスなどでお話をしてあげますよ、寂しい方には最適よという類である。1~2時間で1万らしい。
以上、語彙の解説終わり。
「サポ」の女性の待ち合わせ場所も「売春」と似通った傾向がある。ラブホが見当たらないような場所を指定してくるのは稀である。渋谷、新宿、池袋がメイン、つぎに錦糸町、立川、恵比寿、吉祥寺、上野、駒込などが続く。渋谷、新宿、池袋の場合の多くはプロ化しているか、何も知らないヤケクソな小娘が多いようだ。求める小遣いもそれなりに相場が出来上がっている。
筆者は「手馴れた売春婦」なるものに出会うのは一度で充分と、3大拠点には近づかないようにしている。意外に聞いたことのない街や駅を指定してきた時、長く助けてあげたい女性に出あったり出来るようだ。
変わった「サポ」は次回に (3)へつづく
07.06.09 「サポ」というもの(3) 筆者が潜入ルポに利用したサイトはサクラゼロ宣言の有料ポイント系出会いサイトだったが、利用料金が安いので仕事は順調に進んだ。ただし、「サポ」を望む女性が90%という実態を考えると、「売春サイト」のような気がしないでもない。ただし、現実にブランチ友達として交際を始めた奥様も存在するので、一概に決めつけるのも躊躇する。
さて前項でお話したようにここにおける「サポ」は一時の自由恋愛とお小遣いという関係が多くを占めるのだが、そのお小遣いの額の幅が広い事に笑ってしまう。この辺、プロとアマが混在している証拠なのだろう。潜入ルポの実績での話だが、お小遣いは1〜4万円、時間は40分〜6時間とまちまちだった。
面白い事だが、時間が長くても良いという女性の多くが人妻であること、そしてお小遣いは5千円〜1.5万円とリーゾナブルなことだった。女性によってはお小遣いを貰うのを忘れているケースもあり、「サポ」という感覚よりも、本当に自由恋愛の楽しみを享受しようとしている傾向が顕著である。全員が本気でSEXを楽しむ傾向が強く、旦那さんのSEXへの不満、或いは愛情不足への不満を口にする奥様が多いようだ。ただ浮気が発覚する事への注意力は怠りなく、今後の連絡は自分からだけするからというチャッカリした部分もみせている。「欲求不満」が溜まりにたまったら声を掛けるという按配である。概ね月1回程度にお呼びがかかる(笑)
さて、この潜入ルポで出会った面白い女性の話。先ずは「妊婦」の女性である。生でOKだからね、その代わり優しくする、奥まで至らないように、お腹を押さないこと。中々胎児への気配り充分な女性であった。その割には佳境に入ると奥へ奥へと愚息を求める辺り、中々のスキモノであった。エログロな乳輪と乳首が未だ脳裏に残っている。(川崎にて)
次が深夜に車でプチエッチ希望の19歳。(免許証確認)平凡な何処にでも居そうな女の子、車に乗るやいなやスカートたくし上げ、股間全開。対向車の明りに彼女の下半身は丸出し。筆者の間抜け面が対向車のライトに照らされ、びびる。何とか暗がりまでたどり着き、ゆっくり観察。中々の美形、感動する筆者に向かい「フェラしようか?」屋外で愚息むき出す勇気なく、断ると「だって出さないとお金貰えないよ」だって。何とも誠実な?対応に感激、約束の倍渡して出会った場所に戻ろうとすると「おじさん優しいね、ホテルいいよ」だって。お言葉に甘えてホテルへ直行、なかなか朝起きない娘で往生した(笑)(田無にて)
次なる面白サポはふたりの女子大生。「うち等女子大生ふたり組み、お茶食事デートでサポお願いします」なんてメッセが目に飛び込む。メールすると早速一人の子の写メが届く、なかなか可愛い。指定されたファミレスで合流、2時間近く芸能人の話や映画の話で盛り上がったが、ハイそこまで。一人を抜け駆けさせようなどと画策しても、どうも無駄な努力のタッグ具合。ファミレス代こちら持ちで2時間喋って、ふたりに一万円。つまり時給2500円のアルバイトってことらしいが、割が良いバイトかどうか筆者は判断がつかなかった。一緒に同席も憚るような相手もいるだろうに?素直な感想だった。(吉祥寺にて)
次なる面白サポはなどと調子に乗って書き連ねると、ルポというより趣味なのではと疑われかねないのでこの辺で区切りとする。総体的印象だが一部のプロを除いてサイトに常時出没、売春を業としている傾向の女性は少ない。十人程度は毎日客を漁っているのも見受けられるが、多くは単発に現れ消えているようだ。1部には組織的な統制が行われているニオイもするが目だった動きとまではいえない。
一般的な自由恋愛における人妻の「サポ」は本当にお小遣い程度が欲しいらしく、高額を要求する事はない。どうも彼女達に共通して言えることは、SEXが好きだということのようだ。SEXが主で「サポ」はあればあったで有り難い程度の認識のようである。その証拠ではないが、相性が良い場合に「サポ」と無縁な関係が継続することからも推測できる。「サポ」がプロ化した所謂「売春婦」の場合、明らかにフェイク(わざとらしく声を出し男を早くイカセヨウトスル)な行動が見られるが、SEXの快感とお小遣いという一挙両得の女性たち本当に楽しんでいるようである。あまりに楽しまれると、お小遣いが欲しくなるのは筆者だけかもしれない。多くも少なくもないルポの経験から知る限り、プチサポを望む人妻の多くは胸が大きい女性が多かったが、そのほかもそれなりに太いというのが共通した特長だった(終)
ワクワクメールへ行ってみる
07.03.31 人妻の不倫(1) 最近の夫婦のセックスライフは驚くほどお寒い状況を呈しているようだ。30%がセックスレス、これにはある程度状況を把握していた私も「そうなんだ〜!」と唖然。世代間格差が大きいのかと思ったが、それ程でもないようだ。
この現象を薄々感じていたのは、実は私自信の「不倫の旅」という人生行脚に明確に現れていた。40代前半の頃の不倫相手の多くは20、30代の独身女性が多かった。しかし45歳位から、つまり5年ほど前から不倫相手のほとんどが人妻であったり彼氏持ちという状況が続いている。
 数人が同時進行するのでそれなりの数、傾向を探る事は可能である。多くは出会い系サイトで知り合った女性だが、特に彼女達が「遊び好き」とか「淫乱」とかそういう類ではない。好奇心は旺盛だと言えるだろうが、家事をこなし、子育てをし、旦那さんや親の面倒もみている立派な?主婦たちである。
 初めから「不倫」を主たる目的にメル友を求める訳ではないようだが、潜在的に「性的願望」を抱えている事はあるようだ。自分の好みの条件を満たす男となら「まぁあっても良いかな」くらいの心づもりはあるようだ。勿論、彼女達の多くは日頃のあまりに退屈な日々からの脱却、そして自分の話しに耳を傾けてくれる相手を探しているようだ。そういう関係の男性とは僅かな逢瀬で体の関係になることに、さしたる抵抗は示さない。失われかけた自分の存在を確認するのに、不倫相手の男とそこで繰り広げられる性愛は存在証明として充分なようである。
さらに30%近くの夫婦が自認であっても「セックスレス」、又2ヶ月に1回程度の「準セックスレス」を加えると、半数近いカップルがほとんどSEXをしていないのだから「性的飢餓」状態の奥様族の半分は「欲求不満」ということになる。
 女性の性欲というもの、男のそれのように「射精したい」という明確なガキのような欲求ではないので、行為から遠ざかる事で消えてしまう部分もある。大雑把な見方だが30〜40歳の人妻の四人に一人程度が「性的飢餓」乃至は「性的不満」を抱えて生活をしていると考えて良いのではないだろうか。だからこそ、それほど秀でた魅力もない私のような中年にも「束の間の春」が訪れるのであろう。「束の間の春」も重複、連続して起きると、これは「永遠の春」だともいえる(自慢しているわけではない)
「そんなことして好い気になっていると熟年離婚必至だ」などと陰口をきかれそうだが、「それも良いだろう」くらいの根性据えて不倫はしなければいけない。不倫は良いことかと聞かれたら、鸚鵡返しに「そりゃ拙いでしょう」などとステレオタイプの反応を示すようでは、人妻との不倫を上手に乗り切るタイプの人間でない事を肝に銘じた方が賢明である。中年まで生きてきた大人の人間としての言葉が出ないようでは、普通に見える少しくたびれた中年が「人妻不倫」に突入する事は難しい。
 そもそも屁理屈も含まれるが、男女の恋愛感情などというものは3〜7年程度で寿命が来るものであろう。この恋愛という感情と永久に誓いを等と言わされる結婚という法的制度には土台無理が内在する。そこに家族というしがらみや子供という遺棄できない存在が夫婦という単位を構成している。勿論、情というものが生まれるので、これを幸運にも「愛」と勘違いした夫婦はそれはそれで幸福といえる。
 しかし、核家族が多くを占める都会生活では、子育ての一段落やセックスレスや倦怠期などが重なる事で、妻であり母である都会の女性のストレスは頂点に達する。それをバックアップするはずの家族という存在も単なる邪魔者であったり、文化のすれ違いで協力者相談者にもなりえない。先ほどのモテナイ中年ではないが、ステレオタイプのアドバイスなど聞きたくもないのである。
 このようにして、精神的空疎と肉体的飢餓を抱え、しかし主婦として充分に仕事をこなしている主婦兼妻にとって、その現状の打破はアイデンティティの確認のような意味合いさえ持っている。その解消の為の行動が買い物、食べ歩き、旅行、観劇、エステ、温泉、スポーツなどと同じレベルの土俵に「不倫」が鎮座している時代になったということが出来る。
なぜ「不倫」がその他の「自分探し」の趣味レベルに格下げ?になったか、その理由は様々だろうが、「処女性の価値の低下」「男女が知り合うイコールSEXという市民意識」「男女同権平等」「出会いのインフラ確立」などが複雑に作用した結果と思われる。特に「携帯メール」の絶大な普及は「不倫」の趣味領域への気軽さを助長した。
 一定の量で「不倫」が普及しているという事、そうしなければならない現実的環境が周りにあるわけで、「不倫」をすることのほうが、「不倫」もせずに悶々と夫婦生活を維持するよりも「夫婦」という単位を維持するのに有効なのではないかという結論に至ってしまう。つまり「ウサ晴らし・ガス抜き」の一種なんだと。
 最後に、或る主婦の典型的不倫体験を検証しながら、「不倫」の功罪を考えてみよう。麻子39歳主婦(時々パート)夫45、長男14、長女11の核家族。何処にでもある東京のマンション住まいのサラリーマン家庭。収入もボチボチだが、塾の費用分が不足で麻子がパートで補う程度の生活レベル。夫との夫婦仲は普通だが、SEXは年に数回程度。それも子供の耳を気にしながらのもだから、お座なりも良いところ挿入は5分有るかなしか、夫の射精がすべてのSEXだった。それでも麻子は夫を責める気にはなれなかった。その方が子供に知られることもないし、早く寝られるので有りがたいとさえ思っていた。
 不満があるとすれば、SEXよりも仕事とテレビと風呂メシだけで会話をまともにしない夫の生活習慣に不満を持っていた。しかし、だからといってそれが理由で「不倫」に走るつもりは毛頭なかった。そんなある日、HANAKO族の典型のような大学の同級生サチが久しぶりに顔を出した。同級生の女ふたり、昔話もそこそこにサチの男関係の話題で話は盛り上がった。 
サチは独身だったが相手の男は全員既婚者、麻子の旦那だって怪しいものよなどとからかわれていたのだが、麻子も多少不安な話でもあった。不倫相手の情報によると、独身はサチが初めてで、それまでは人妻とW不倫を愉しんでいたいうことだった。人妻の不倫ってそんなに多いのか聞いてみると、独身の女より簡単に不倫をするという情報だった。帰る場所があるわけだし、数時間の別世界。特に混乱するとも思えない。独身よりもずっと気楽でしょう。そもそも旦那は女房の女の部分に興味がないのだから、炊事洗濯さえ完璧なら、疑うなどという事はありえない。疑わないのだから、バレル確率はゼロ。体や性反応が変わるっていっても、SEXをほとんどしないし、しても10分、判るはずがないのだそうだ。その上、平日の昼間の数時間、アリバイも何も要らないのよ。旦那の浮気の方が時間とか大変なんだって。
 「それって相手どうやって見つけるのよ?」麻子は単純に興味を示した。毎日の愚痴や相談をチャンと聞いてくれる男がいたら、もっと気が晴れる。麻子はそう思った。この時点で、麻子の性欲はゼロに近い。不倫というもの(2)に つづく
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07.04.03 人妻の不倫(2) 「そうよ、私さえシッカリしていればメル友と会うなんて有りえない。チャンと話が通じて、常識があって、土日のメールが無理なことを理解してくれる男の人が居て、平日お話が出来るなんて、それはきっと楽しいに違いない。自分では思いつかないアドバイスや知恵だって期待出来ちゃう」
『既婚で少し年上の紳士で知的なメル友募集です。主婦ですのでお会いするのは無理なのですが、メールだけで良いよって理解のある方よろしくね』メッセージはほとんどサチが書いてくれた。大手の出会いサイトに登録、ドキドキしながらメッセージへの返信を待った。
 数日の間、麻子は送られてくるメールの数に圧倒されたが、サチのアドバイスに助けられ、何とか数人に絞り込んだ。
 一週間もしないうちに残りの男達も消えていった。一人残ったのが自営業と称する身元のハッキリしない43歳の男だった。この男が残った唯一の理由は、直のアドレスを知りたがらなかっただけのことだった。日中でもメールのレスポンスは早かった。少し変だとは思うものの、打てば響く返信は心地よかった。そして、その言葉は温かく、優しく慰めるだけではなく、時には「君も言い過ぎだ」とか「見過ごすことも必要だ」とかさらりと忠告も送ってくる男に麻子は次第に心を奪われていった。身元もある程度想像の出来る状況になっていた。
 一日2,30通のメールが3週間近く続くと、麻子は自分の中で「会うだけなら良いのよね。こんなに優しくおっとりした男性なら、お茶くらい大丈夫」という気持が生まれているのに気づいた。そして、男からの返事が少し遅れるだけで「何か変なこと書いたかしら」「怒ってしまったの」メールが届くまでの間、麻子の胸は女子高生のように締めつけられた。
 「会いたい」麻子の気持は盛り上がった。サチに相談してみると「やっちゃいな。初めだけよ怖いのは、必ずゴムはつけるのよ」会うだけだと相談したのに、サチはその日にホテルまで行くだろうと予言した。そして、麻子は自分から会ってみたいと男に告げた。
 後三日で男に会う、麻子の胸は寝ても醒めても男の事で一杯になっていた。すでに男がどう出るかなど考えてもいなかった。当然その日のうちに抱かれてしまうイメージが出来あがっていた。いわゆる妄想なのだが、気持も体もその為の前戯段階に入っていた。
 男は手馴れた仕草で麻子を車に乗せると走り出した。何処に行くとも告げず、手を差し伸べ麻子の手を包んだ。体が完全に反応した。信じられないほどの速度で準備が整う自分をどうすることも出来なかった。夫より年配にもかかわらず男は逞しく精悍な顔をしていたが、笑顔が子供のようだった。麻子は一瞬にして恋に落ちた。
 後のことは考えていなかった。いや考えようともしなかった。言葉を発する事自体いけないことのように思えた。
 そうして、言葉が消えた世界で麻子は夫を裏切り、運命のように素性の知れない男の体を受け入れた。
不倫というもの(3)に つづく
大豆のいいとこ、ギュッと詰めました!
07.04.14 人妻の不倫(3)  男と夫のセックスはまったく別のものだった。夫とのセックスは交尾という言葉がピッタリだと感じた。初めのうちは前戯らしい行動もあったが、子供が出来てからは準備が不充分なままに挿入ひたすら動いて果て、直ぐに鼾をかくようなセックスだった。避妊のピルを飲んでいるのだから、交尾でさえなかった。単に夫の偶の性欲を満たすマスターベーションの道具に利用されていると、男との関係を通じて確信した。
出産した事での膣の緩みに文句を言い、何とか体操でもして努力しろなどと嘯く夫にくらべ、男は優しかった。麻子の体は最高だと褒めてくれ、緩みを治すのは男の責任だよと、体を愛しく扱う行為に愛さえ感じていった。セックスに交尾(生殖)とコミニケーションと快感という三つの役目があるとするなら、夫は今やひとつも義務をも果たしていなかった。いや、セックスには経済的優位者の性欲の捌け口(射精する為の穴・道具)という四つ目の役目があるということさえ判ってきた。
男のセックスは一週間の出来事を話し、麻子の話を聞き、のんびりと二人でバスタブに浸かり、洗い合い、交わる事もあった。妊娠線に対しても「女の勲章でしょう」と愛しく触れてくれた。しばらくすると、男の行為によって間違いなく昔のようにアソコの筋肉が緊張するのがわかった、そして「凄いよ、麻子が目覚めたね」と激しく行為してくれた。麻子は男の目的が体であることは充分に知っていた。体の関係がより善いものになるための優しさだという事も知っていた。いつか終わりが来るであろうことも感じていた。それは既婚者同士の関係の限界なのだ。「愛の流刑地」のようなことは例外に過ぎないし、馬鹿げているとも思っていた。何時の日か関係が間遠くなり、消えていく男に抱かれていたが、女を実感できたし、未だ美しく、男の体に充分反応する体を認識できた。
そして、妻でも母でも嫁でもない、麻子というひとりの女を演じる時間を手にしていた。男は目立たないようなプレゼントをしてくれた。高価なダイヤとかじゃないけど、麻子が無理すれば買えるようなプレゼントを思い出したようにしてくれた。時には、体を無視して映画とドライブで一日を過ごすこともあった。麻子は男と会うためにそれ以外の6日間を消化した。良妻賢母として今まで以上に完璧を期した。男に他の女がいるかどうか、はじめの内は気になったが、今ではどうでも良かった。一緒に居る時最高の気分であれば、もう何も欲しいとは思わないようにした。
夫とのセックスにも男は協力的だった。「しない方が変でしょう、するべきだよ。その方が今の僕達の関係がさらに際立つでしょう」「逆に聞かされたら、もっと愛せるかも」などと嫉妬を口にすることもなく、ひたすら麻子に快感を与える為に行為していた。麻子は体だけじゃない、きっと私は彼を愛してる、本気でそう思っていた。そして、そう思う事が一層快感を押し上げた。それでも心の奥底では、必ず別れが来ると自分に言い聞かせた。出来るだけ永く永遠に近く永く、そう願う事が愛している証拠、麻子はそう思った。
こうして平凡だが勤勉な夫と可愛い子供のいる人妻麻子は、不倫に心身を委ねていった。不倫をすることで「後ろめたさ」はあったが、精神安定剤を飲んでいるようなものだとも思った。生活に張りができ、幾分身体も引き締まり、肉体的疲労を感じなくなっていた。夫がテレビばかり観ている姿に苛立つ事もなくなり、話しかけられないことがありがたくさえなっていた。子供への言葉も幾分優しく変わっていた。姑の厭味にも笑顔で応じる余裕のようなものさえ生まれていた。
此処に例示した人妻麻子の不倫行動が特別な出来事だと言えない環境が我々の生活をすっぽりと包んでいる。彼女らはネットや携帯を手にすることで、いとも容易く”好みの男”を選択出来る時代なのである。勿論男達の自己申告の信憑性は疑わしいが、一か月くらいメールで確認すれば馬脚は必ず現れるものである。自分をミステリアスな女にして、男にだけ写真を送らせることも簡単なのだ。初めて会う段でも、日中のファミレスなどを選べば危険はほとんどない。イメージが違っていたら、後日のメールでお断りを入れてしまえばそれまでのこと、跡形もなく過去は消え去る。このような選択を可能にした最近のインフラは、彼女達の住む世界を一気に拡大させているのである。これからさらにこのインフラは充実し、まったく接点の無い男女を秘密裏に結びつけることだろう。
「不倫の可能性」というものが日常的に転がっている時代であり、妻達の平日には数時間の自由があり、生活に何らかの具体的不満、漠然とした空虚感がある限り、妻達がその誘惑に誘われるのは一種時代の流れである。極端な言い方だが、5分で相手が見つかる世界がPCや携帯の先にあるのだから。
それでは「妻達の不倫」が蔓延(大袈裟だが)したとして、どのような現象が社会的に起きるのだろうか?仮に麻子のような状況の不倫だとすると表面的な変化はほとんどないであろう。子供を介したママさん連中との「ファミレス駄弁り」の時間が「男とのSEXの時間」にチェンジしただけである。精神的な苦しみがあるのではという危惧も語られるが、誰かと繋がりたいという空虚感があったこと自体が精神的苦しみだったのだから、「不倫」をしている妻達に「不倫」は精神安定剤であって、苦しみを増すものではないだろう。特にここ20年くらいは処女とか貞操という観念は有名無実化しつつあるだけに、良心の呵責は夕げのおかずが一品増やす事で帳消しになる次元になっているともいえるのだ。不倫によって「妊娠」「性感染」「相手との金銭トラブル」「別れ際のトラブル」などの問題も滅多にあるわけではないので、あくまで「不倫は終わるもの」という定理を自覚している限り、トラブルもなく日常も何も変わらないのかもしれない。そして一つの「不倫」が終わり、再び次の「不倫」を体験するか、そこで終止符を打つかは彼女達の裁量の範囲だと言える。
結局多くの「人妻の不倫」は妻が日常生活リズムを変えない限り、発覚する可能性はゼロに近いのだろう。彼女の性的反応が変わったり、SEXの名残が体に残っていたとしても、妻が空虚感を感じるような扱いをしていた夫が妻の異変に気づく可能性は無いということなのだ。「妻の不倫」の危険は彼女が夢中になりすぎた場合のみだろう。そうしてみると、「妻の不倫」が冷静に行われる限り、被害者は居ないことになる。不貞という観念は生きているだろうが、発覚しない限り「不貞」という問題も生じない。彼女ら妻達にとって、それは女として扱うことを放棄した夫への復讐という問題ではなく、代替行為程度に考えているので罪の意識は希薄である。「不倫」をすることで夫や生活への不満が和らぎ、子育てのストレスも解消するのであれば、心療内科の効果がほとんどないカウンセリングより意味があるのは肯ける
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06.08.17 3,40代のED 最近の調査によると、3,40代の男性の勃起不全いわゆるEDが急激に増加傾向にあるらしい。EDの定義は「勃起が起きない、あるいは勃起しても維持できずに満足なSEXが行えない」事を指す。国内で1000万人以上がEDの可能性があるといわれている。勿論この数字には加齢によるED患者も含まれるので3,40代の患者数は700万人程度と考えられる。原因の多くはストレスなどによる心因性のEDであり、その気があれば治療薬で概ね解決する。しかし、この勃起不全の治療薬はSEXする気があることが大前提であり、SEXにポジティブな気持ちが要求される。問題なのは「マスターベーションで勃起と射精、快感があるから好いじゃん」という男達の存在である。現在の勃起薬は「勝手に勃起」してくれる効果はないので、やる気がないことには勃起しないのである。
勃起した陰茎を持続させる効果が最も期待される薬なので、夜な夜なPCやDVD、ゲームに夢中になっていても勝手に勃起はしてくれないのである。つまり女房や恋人と愛を交わす意志が必要になる。少子化問題で取りざたされている晩婚化、非婚化という問題も重要だが、実は結婚して子供をもうける条件の揃った夫達にまで、このSEXをやる気になる意志が欠けているのが重大な悩みだと言えるのではないのだろうか。なぜ夫達は「あんなに気持ちがイイ」SEXをする気にならないのか?先ずは時代的背景として、自由な時間を愉しむ選択肢が異常に増えた事が挙げられる。貧乏人の唯一の愉しみというSEXの存在位置は相当下にランクしているのだろう。次に他人の体と共同で作業(SEX)をするというコミュニケーションの取り方が不得手、面倒という傾向があるのだろう。ついつい「ひとりエッチ」の方がラクチンという発想が生まれることも充分考えられる。まして、女房に満足にオーガズムを与えられない夫という烙印を捺されない為には、しなのが一番だという発想も成り立つ。昔のように、女房がヴァギナを夫に貸すという道具としての観念がなくなり、女性のオーガズムに必要なものがどのようなものなのか、相手の妻が知っていることが夫にとって重圧であり、失敗しそうな行動は慎むのが賢明という風潮も無視できない。
やる気がなくても勃起とその持続を約束する薬の開発も途上にあるが、今暫しの時間が要するであろう。現在の40代は定年を迎えるかもしれない。そこまで横着を決め込むのも悪くはないのだが、前向きな女房族は夫が提供しない女のオーガズムを求めて彷徨う可能性は多いにある。つまりは女房の浮気である。善悪の区別は別にして、夫にとって愉快な出来事ではない事態に直面することが考えられる。出会い系サイトの隆盛には、この女房層が数多く存在している事実を見ても、虞という段階を過ぎたと認識すべきだろう。困った事に、この出会い系で女房族を待ち受ける男族は「女に快感を与える」という行為に生甲斐を感じている連中が多いので厄介な事になる。女房とSEXするのは面倒、マスターベーションの方が余程気持ちイイ、このような夫族が太刀打ちできる種族でない事を考えると、今考えを改めておかないと「女房が他の男の下でのたうち回る」姿を想像して、頭を掻き毟る事態になってしまうのである。
結論という訳ではないが、嫉妬で無様な姿を晒す前に、先ず勃起治療薬を手に入れよう。そして下手であっても構わない、女房とのSEXシーンを出来るだけ多く設け、コミュニケーションのなかで勃起する癖をつけよう。数ヵ月後には女房とのSEXに条件反射のように勃起する陰茎に出会えるはずである。はじめは、奥様には失礼だが、女房のヴァギナでマスターベーションするくらいの気軽さで試みてもいいだろう。これは次のステップに進む為の必要悪と考えて欲しい。不思議なものだが、愛し合っている男女というもの、手順が間違っていても、性行為を何度もしているうちに、快感の道筋を見つけられるものである。SEXを難しく考えず、兎に角ヴァギナで射精するという行為を繰り返す内に先は見えてくるもの。ありがたい事に、勃起薬の多くは勃起の持続効果が顕著なので、早漏を相当のレベルで防止する事が出来るので、行為の時間が長くなり、様々なバリエーションに遭遇できるので奥様の快感開拓が偶然見つかる可能性が高い。そうして、二人だけのSEXマニュアルが完成、夫婦だけの快楽の秘密が共有できるのである。くれぐれも、AVなどで勉強する行為は愚と申し上げておこう
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06.07.25 不感症というもの すべての女性があの悶絶と表現してもいい性的オーガズムに達するのはパートナーである男の責任が大きいと考えていたのだが、最近数人の女性と接する事で、微妙に考えが変わってきている。特に当サイトが主張するヴァギナオーガズムやボルチオオーガズムの世界までSEXを高めるためには、男のペニスの長さ(膣奥に達する)亀頭部の大きさ、硬度が物理的に必要なことに変わりない。射精時間のコントロールの必要性も同様に変わらない。筆者自身以上の条件を満たし、100人近い女性と恋をし、愛を交わし自信満々、俺は天才?などと薄々考えていたのだが、ここ1ヶ月に二人の不感症(オーガズム不全)状態の女性に出会い、自信が揺らぎかけている。今までが順調だっただけに、パートナーである女性の成長過程の環境とか性に関する思考など歯牙にもかけていなかったツケが一遍に突きつけられた状況になった。
この二人の女性が同じような不感症(オーガズム不全)かというと、全然違うものである。
A子(37歳既婚)の場合オナニーでオーガズムに至るがペニスの挿入では特に快感を感じないので、相手の男に付き合う為にSEXをしているらしい。肌の接触という心地良さがあるので、SEXが特に嫌というほどではないらしい。A子の場合は13歳からオナニーを始め、18歳の時点でオーガズムの頂点を極めていたらしく、オナニー、つまりクリトリスでのオーガズムに熟達、その機能を完全に開発した経緯があった。彼女の話を聞く限り、そのオナニーにはそれ自体に完結性があり、子供じみたオナニーの領域を脱した快感行動ということが出来る。A子の話をまとめてみると、「快感追求」は全て自分で完結するので、男は要らない。ただ、パートナーの男性とのコミュニケーションのためにSEXを選択しているだけだということのようだ。お酒を飲んだり、お喋りをするだけでも充分なのだが、相手の男性を惹きつけておく為にSEXは手段と考えているようだ。筆者の考えを補足すると、「生殖」の為にもSEXは必要ということになる。A子と充分に話し合ってみたが、SEXであらためて「快感追求」をするつもりはゼロだし、その必要もない、ヴァギナでの快感に好奇心も湧かないということなので、、流石の筆者も退く事にした。

次にB子(36歳未婚)の場合はもう少し複雑だった。彼女の体は男の「快感追求」に大変都合のいい体ということが出来た。男にとって刺激の強い女性の性器のことを「名器」などと呼ぶが、まさに彼女の部分は「名器」であった。筆者は単純に彼女が「名器」故に、オーガズムに必要な時間や行為が経験できない為に、オーガズムに至らないのだろうと考え、数ヶ月にわたって手練手管の限りを遣ってみた。しかし、彼女の反応に大きな違いは見出せなかった。あまりに真剣に自分のオーガズムの為に努力する筆者を気の毒に思ったのか、彼女は自分の「性に対する考え」を話すようになった。彼女の一番印象的で筆者を考えさせた言葉は「自分を失うのが怖い」だった。極めて知的職業に就いている女性であったが、アイデンティティの存在を意識するあまり、オーガズムに至ってあらぬ自分を他人に見られたくない自意識も作用しているようだった。違う観点から考えると、B子は男女の恋愛というもの自体を、受け入れられない性格をしているということだろう。否、自分が変わってしまうような恋愛、新たな自分を見つけてしまうような恋愛を何処かの時点で遠ざけた人間ということが出来る。簡単に言うなら、彼女がクソミソの区別もつかないような恋愛感情を持つようになれば、すべてが解決するのだろうが、そういう男に出会う確率は限りなくゼロに近い気がする。B子との関係は切れていない。彼女の博学を聞かされるだけで充分につき合う価値がるので、裸になって肌を合わせて会話を愉しむ事にしている。不思議なのは、最終的に結びつく事が会話の終わりを告げる行事のように行われることである。そして、彼女に快感を与える義務を逃れた筆者は、ひたすら「名器」を愉しみ果てるのであるが、流石にどこか侘しいものである
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05.10.08 出会い系のゲーム感覚 今年の3月に出会い系サイトについて、その功罪などを語ったばかりだが、最近になって全く異なった出会い系サイトの役割に気づき愕然としたので、その話をチョットしてみようと思う。
無限に近くネット上に存在する「出会い系サイト」だが、大手プロバイダーなどが運営するサイトを除くと、30個程度の基本プログラムが使用されていることに気づく。名前が全く違うサイトなのに、ほぼソックリの画面が展開する。これが鼠算式に増殖しているので、無限になるのは当然なのである。わずかな使用料で「出会い系サイト」を運営、おそらく運営者個人と数人のアルバイトがシコシコと返信のキーを叩いている姿が浮かぶ。時には偶然参加するバイト嬢(男も多いようだ)ではない女性も存在するが、単なる偶然かデリヘル業者(売春)であることがほとんどなのだ。ポイント稼ぎの迷惑メールが山のように届き、出会うどころの話ではなくなるのが現状なのだ。
「出会い系」の優劣や攻略ガイドのサイトを観察すると、その基準のほとんどが「本当に出会える確率」「サクラの存在」「対費用効果」などだが、実はここ1年くらいは、これら「出会い系評価」とは全く異なった基準で、出会い系サイトが利用されるようになってきた。
それはサイトの「上手なサクラ」の存在を楽しむという、ネットならではの遊び方なのである。つまり、サクラをメル友にしてしまうという、現実に即応した順応性豊かなゲームなのである。ポイント課金や無料お試しシステムの運営者は、兎に角ポイント購入を画策するわけで、サクラが存在しないわけはない。サクラのアルバイトが存在して当然なのが「出会い系サイト」と割り切って利用するのがルールと利用者が考え始めたようである。スパムメールも「来ないと淋しい」「読んでるだけで楽しい」「何か友達のような気分になる」「誰もいないより、誰かが居る感じ」「嘘だろう、でもエッチな気分になれる」業者の必死のメールが滑稽で面白い」など等、ユーザーは自己防衛に乗り出したようである。
この現象は一種の「オタク文化」だと言えるだろう。AVで擬似性行為を覚えた世代にとって、生身の女性と本当に会って大丈夫だろうか?勃起して、性行為をして、AVのように女性を満足させられるのか?只でエッチといっても、ラブホ代や食事代だって大変だよな。そんな不安があるくらいなら、2チャンネルの掲示板を読んでるだけの傍観者的参加と同レベルで「出会い系」を掲示板のように見てるだけの参加者が増えても不思議ではないのだ。
彼らの多くはゲームで育ち、AVで射精処理をした世代、そろそろ「ポイント課金出会い系」の限界が近づいてきた思わせる。彼らはあえて、現実に出会うことを望んでいない。出来ることなら、生身の女性との難しい関係を省いて性行為をするのも悪くないと考え出してきたようだ。
ポイント課金、携帯出会い系の冬の時代の襲来を、以前とは異なった次元で予測するという皮肉な発見なのだ。出会い系がどうなろうと、当方のあずかり知らぬことなのだが、果たしてバーチャルがここまで進んでしまうと、少子化にまたまた新たな強敵要因がひとつ追加されるとも言えるだろう。
ゲームとAVを通したバーチャル世代の出現は、おそらく今まで以上に膣内射精障害や対人若年勃起障害などや「引きこもり」を生み出す可能性を予感させる
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05.05.18 夫婦とセックス 「結婚している10代から40代の日本人男女の約3割が、最近1か月以上性交渉がなく、セックスレス傾向にあることが、厚生労働科学研究班などの調査でわかった。・・・海外の大手コンドームメーカーの調査でも明らかで、2004年の結果によると、世界平均は年間103回なのに対し、日本は46回と半分以下だった。日本家族計画協会の北村邦夫常務理事は「行政になじみにくいテーマかもしれないが、少子化対策としてセックスレスの問題にもっと真剣に取り組むべきではないか」と話している」
上記はごく最近の読売新聞の記事の抜粋だが、この問題に関連して毎日新聞とMSNのネットアンケートでは「半年くらいセックスしないのがセックスレスじゃないの」という結果が出ていた。このような記事を読みながら、夫婦のセックスって何なのだろうかなどと考えているうちに、夫婦のセックスへの様々な疑問が湧きあがってきたので、ついペンを執る気分になった。
セックスレス云々はある意味どうでもいいことで、日本人の夫婦が年間46回もセックスに励んでいる事実(ほぼ週一回))に、安心を覚えるくらいで、少子化にまで影響すると考えるのは大袈裟というものだろう。そもそも世界の平均103回の調査結果が疑わしい。40台の夫婦が3日に一回セックスをするアンビリーバブルな話で、文明国ではありえないと判断すべきなのだろう。離れ小島に流され、仕事もなくストレスも無く、でも飢えることのない生活環境、テレビもパソコンもゲームも映画もない世界のことなら、まあ、あり得るかな程度の呆れたデーターに過ぎないのである。
このコラムのテーマはこれらの統計の数字に拘るものではないので、セックスの回数はこのくらいにして、話題を夫婦のセックスに絞り込んでみようと思う。
今回は変わった側面から夫婦のセックスを観察してみようと試みた。旨い事面白い結論が導き出せれば、へそ曲がりとしては満足なのだが、出来具合はいかがなものだろう。
さて、その変わった側面の一つがピルの普及が想像以上に伸びない事である。次に、我が国の射精産業の充実ぶりという事実。最後に我が国の情けない住環境の側面である。
このテーマを思いついたきっかけは、出会い系サイトで人妻と出会い、好き勝手をしている或る男を取材したことだった。
男は嘯く、「この世の亭主のセックスはほとんど射精が目的で、序に生殖も含まれるが、決して愛のコミニケーションを意識していない」「つまりは、ほとんどの女房、ママさんはオーガズムなんて体得していないのですよ」
筆者としても沽券に関わる問題「女房もそれなりに感じているほうが多いでしょう」と反駁してみたが、にこりともせずに彼はそれを否定した。
「まあ、時にはそういうご亭主もいるでしょうが、そういう人妻はネット上で出会いなんか求めていませんから、存在しないのと同じですよ。僕が出会った女性で、本当のオーガズムまで知っている人妻は皆無でした」
男との取材を終えた筆者は複雑な気持で家路についたのだが、男の話に納得していた。取材中の話にも整合性があり、特に自慢話をしている風でもなかった。最後に避妊はどうするのか尋ねてみると、「接して洩らさずです」とあっさりと答えた。
取材のネタを仕込んだのはいいのだが、筆者は世の女房族はほとんどオーガズムを得ていないと断言する男の論理を検証していた。
1、そもそも男がセックスをする目的は女性のヴァギナの中で射精したいからだ。本能的にそういう身体に生れついているのだから、彼らが悪いとはいえないだろう。でなければ、風俗で揉んで貰い射精する為にお金を支払う訳がない
2、女性がクリトリスの表面的な快感を体得するのは、ごく自然な成り行きのようなものだが、初体験後にクリトリス愛撫で快感を得るのは当然なのだが、そこから先、男女の性器結合で快感(真のオーガズム)を体得するまでには、多くの道程が必要とされている。おそらく、500回(新婚で毎日セックスに励んでいるつもりでも2年は必要)近くペニスによる挿出や圧迫があってはじめて体得の玄関に立つという、難儀なものであること。
3、その上、女性が初めて結合でのオーガズムを感じる為には、30分以上結合を続け、ヴァギナを刺激し続ける必要性がある。30分勃起を継続出来る男が少ない事(年齢的に30前後では射精欲に負け15分程度が多い)、前後合わせて1時間以上セックスのために、ゆっくり時間の取れる住環境が整った夫婦が少ない現実。
4、その間に、幸か不幸か子供が出来る。妊娠出産はある意味で夫婦が男女である事を失念するリスクを持つ、極めて危険な時期でもある。理屈はより愛が深まるのだが、愛が深まり、子供も出来て強い絆は愛情に見事に発展するのだが、男女としての性的関係となると、道徳論者のように都合良く事は進まない。適当なセックスになってしまうものなのだ
5、子供が出来るまでに結合によるオーガズムを体得している女性の場合、問題は少ないのだが、そこまで至らなかった夫婦の場合、性的に疎遠になるのは不思議な事ではない。ある意味で、疎遠になる、義理マン義理チンが自然なのである。
6、さして忘れられない程の快感のないセックスよりも、睡眠の方が有難い気持になるのは、決して不自然とは思えない。結局精液の溜まった夫の射精産業と変わらない性的関係が知らず知らずに構築されてしまう構図を日本の核家族は時限爆弾のように抱えているのかもしれない。
7、子供の成長度に合わせて、このような状況を打破できる夫婦は希で、そのほとんどが夫の射精の満足と妻の適当な快感という対立軸が構成される。
8、最近では30代の男性もリストラ騒動の煽りを食う形で仕事量は増大するし、徐々に年齢的疲労も蓄積され、あれほど好きだった射精も必要性を失っていく状況が現れる。
9、ところが、妻の方は子供が学校に通うようになり、自分の時間が生まれ、自分自身を見つめる余裕が、この頃から生まれてくるのは皮肉な事態である。女性としての幸せってと非常に考える時期でもある。性的情報はネット上に氾濫し、女性がメル友を求めるということは、入れ食い状態で男をゲットできることを意味するので、自分を女として扱う世間に夢を抱くようになる。ある程度の危険は承知で自分の女を確認したい誘惑を覚えるのに、それほどの時間は必要ないのだ
10、そのような状況で出会った男が嫌味がなく、嘘も少ない男性であることが判断できた時、好感度にもよるだろうが、私さえシッカリしていれば、束の間の恋をする自信はあると思うのが、40前後の妻たちの結論になるとしても、ひどく真っ当に思えてくる
11、出会いの彼曰く、「35から45位の出産経験のある人妻こそが、それこそセックスを謳歌できる時期にさしかかかっている」と真剣な眼差しで語っていた。つまり、後一息で結合によるヴァギナや子宮によるオーガズムを体感できる準備万端な身体を有しているという事のようだ。世の亭主族は結婚10〜15年の自分の妻たちの身体が最高潮に達している事を見逃してしまっているのだが、「いわゆる宝の持ち腐れってことです」という考えと、「今更目覚められて、俺は対応しきれない」という気持になるのかもしれない。結局ここに男女のすれ違いが生まれてしまうようだ
12、出会い系の彼も妻帯者なので、いわゆるW不倫の関係になるが、そもそも不倫自体が男女双方の性的欲望を心理的に大きく刺激するので、普通にセックスをしても、妻たちは入念な愛撫に感動してくれるので、大変楽なのだそうだ。その上、優しく激しく責める彼のセックスは、妻たちにオーガズムを与えたいが為のセックスなのだから、絵にも描けない快感の坩堝にのめり込んでも、何の不思議もないと言えるようだ
こんな事を書きながら、フト居間に顔を出すと、妻がテレビを見ながら居眠りをしている。筆者は女房がパソコンも携帯も嫌いな人種である事に、ホッと胸を撫で下ろし、もう少し優しくしようかなどと、女房の身体にタオルケットを掛けてやる。
筆者はそんな亭主族の一人として暗澹たる気持になるのだが、夫婦という単位でのセックスに日本の男達はどれほどの意識を持っているのか、たしかに不安ではある。心理的性刺激が同居することで次第に薄れ、妻を女性としては見られなくなってくる。妻の側からも同様の心理的状況が生まれる。生活を共にすることによって生まれる様々な出来事は、セックスに現を抜かしていられない現実を押し付けてくる。この夫婦間に生まれた男女間を乗越えた家族愛は非常に美しくも見えるのだが、こと性的男女の関係では相当貧弱な現実があることも想像の範囲である。
賢い女房たちは、その性的欲求不満を韓流ブームに置換えたり、グルメで誤魔化したりしているのだろうか。身近な女性たちの意見では、「そこまでの目くるめくオーガズムを知らないから、知らないものは強いのよ」ということらしい。つまり、クリトリスで感じる程度の快感イコールオーガズムだと思っているから、セックスも程ほどで充分なのでしょうとうことらしい。
ピルの普及についても聞いてみると、「たいしたセックスでもないのに、毎日薬を飲むなんて面倒だし、まして何時あるかも分からないセックスのために馬鹿馬鹿しいでしょう」という答えが返ってきた。なるほど、一日置きに目くるめくセックスが味わえるのならピルも必要ということなのか。そんな風に考えると、欧米でピルが50%強の普及ということは、年間100回もあながち出鱈目なデータではないということなのだろうか。フ〜ム、やはり日本の男のセックス意識が向上しない限り、ピルも普及しないし、女房族の目くるめくオーガズムも言葉の世界で終わってしまうのかもしれない。
筆者は別れ際に彼が言った「手抜き亭主のお蔭で、僕は奥様たちをお望みの世界に導けるわけですから、ご亭主に感謝してますよ」という言葉が蘇った。
ありそうでないもの!!ハシートップイン
05.03.01 出会い系サイト 出会い系サイトの功罪を云々する時期は既に過ぎ去ったようだ。既に最近の人間関係の構築のツールの一つとして定着したといってもいいのだろう。今後も出会い系の利用による犯罪が発生することは充分考えられるが、出会い系に限らず犯罪に巻き込まれる危険は21世紀社会の常識だと思うべきだろう。
青少年の出会い系における犯罪件数がどうのこうのと議論するのも、ある意味奇妙なのだ。深夜にコンビニ周辺にたむろする普通の中高生がゴマンといる時代。危険は出会い系に限らずアチコチにあるのです。最近では義務教育で通っている小学校自体が悪の温床だという意見さえあるのだ。義務教育だから通わせなければいけない、行けば行ったで子供の世界では何かが起きる。切れる子に殴られる、町で会えば100円貸せという「かつあげ」も横行している。だからかどうか別にして、私立中学か公立中学か小学生時代に人生の分岐点を迎えるという、忌まわしき時代なのだ。
そうそう、ここで教育問題、義務教育は悪の温床施設を提供することなのか?という議論をするはずじゃなかった。出会い系は何なのだという話だった。
最近の出会い系がどうなっているのか知る必要を感じて、兎に角有料無料取り混ぜて入会、潜入ルポ紛いの努力をしてみたのだが、非常にガッカリしてしまった。数年前に比べ異常なくらいに質が低下している。完全無料はコンタクト以前にポイントが不足していると捲し立て、料金説明が始まるし、悪質なところは無料で参加したのに有料を申し込んだことになってしまう。一部の個人情報はすべて悪用されて、次々と見知らぬ親戚サイトからメールが届く。ウザイ!と叫びたくなるレベルに閉口する人々も多いのだろう。その数は多いところで一日に40通近いのである。
大手ポータルサイトの出会い情報も相当に酷い状態になってきているようだ。業者がはびこり、友達を真剣に探そうとしている人々に罠を仕掛けている。たしかに、男を誘うような言葉に騙されるのがいけないのだが、業者も必死、プロの文章で赤裸々にではなく、巧妙に誘って来るようだ。その上、小遣い稼ぎの素人集団までがプロ紛いの手法で、アフィリエイト収入目当てに参入、何も知らない純真なメル友探しの人々を毒牙に掛けているようだ。
淫行条例や淫行誘い込みの罰則など法的強化もあるだろうが、業者自体が極めて厳しい経営環境に追い込まれているのが実情のようだ。つまり、最後のひと暴れ状態になってしまって、カモの刈り取り場と化している。
そういうことで、簡単に入会出来る出会い系サイトは死ぬほど注意しなければならない状況であり、この状態が続けば一般人立ち入り禁止の世界になることは間違いなさそうだ。そのサイトの住人は全員業者という世界も近々現れそうだ。まして、もっと酷いのは「振り込め詐欺」グループも参入してきている状況は出会い系サイトの断末魔の叫びのようにも映る。
このような状況を見てしまうと、見知らぬ人と出会う、このロマンに満ちた出会い系の世界の終焉が近づいている予感がしてくる。出会い系に普通の感覚(質実剛健でもない、程ほどに生きよう、でも誠実に)に近い人々にとって、出会えるチャンスがあったはずの出会い系サイトの喪失を意味する。出会い系サイトで中高生が犯罪に巻き込まれる云々と異なる次元で、普通のオトナが詐欺や犯罪に巻き込まれる日常が、出会い系サイトに渦巻いているといえるだろう。
実はここ数年、出会い系サイトなどを通じて独身中年男性の結婚率アップ、それに伴う少子化への一縷の望みのように思えた現象にも歯止めがかかる危機だともいえる。彼ら中年男性の結婚相手は30代後半の結婚しない女性群なことも、悩みを大きくするだろう。
健全な出会い系サイトの育成などと言い出すつもりはない。それでは本末転倒の管理サイトの登場になってしまう。しかし、悪徳業者やそのダミーが暗躍する出会い系サイトがこのままで生き残ることはないだろう。
だから厳しい審査のある有料優良出会い系サイトが良いのですという短絡的なものでもない。初めから結婚相手探しという目的意識がある場合は、結婚相談所方式のサイトに入会すればいい。問題は一般に何となく良い友達が欲しい、異性の人と話もしてみたいという自然の感情が食い物にされるのが問題なのである。どのような資格のユーザーを入れるかという問題ではなく、悪徳業者やそのダミーなどを駆逐する方法を見つけたサイトに光明が射すのであろう。悪意に満ちた個人もいるだろうが、その個人差を区別する必要はない、出会い系という個人レベルの世界にはびこる商人をピックアップ排除したサイトが生き残るに違いない。
現在出会い系サイトは有効なコミニケーションツールとして定着しており、駄目だ駄目だの解決は稚拙であろう。顔が見えないからこそ夢が広がる世界があってもいいだろう、想像力を活性化することにも役立つだろう。どんな日本語か別にして、文章を書くという脳の活性化にも役立つだろう。しかし、ノホホンとしていると酷い目に会う出会い系は駆逐されるべきなのだ。おそらくプログラムである程度の対策は可能だろうし、NPOなどが悪徳業者の情報を逐次提供するのも方法として考えられる。
いずれにしても、現状の出会い系サイトでは、マトモな異性に出会える可能性は数パーセント、ダミーのサクラに出会う確率が90%の世界だということなのだ。このような現象は「オレオレ詐欺」と時期を同じくする点を考えると、同一犯罪集団や組織に終着点があるのかもしれない。
ワクワクメールへ行ってみる
04.08.18 潮吹き考察 AVファンならずとも、SEX中における女性の「潮吹き」なる現象には、多くの男が過大な幻想を抱いているようだ。クソガキまでが「潮吹きマニュアル」を片手に、Gスポットを長時間に亘って擦りつづけ、「潮を吹かない」と彼女を責めてみたり、膣炎を起させてしまったり、お笑い種な「潮吹き」願望が巷に広がっている。
AVにおける「潮吹き」は一見Gスポット責めで潮が噴出したように見せているが、実はこれは相当に怪しい。おそらく、皆さんが目にしているAV「潮吹き」は70%、ただのショウベンだということで間違いないでしょう。撮影現場がどれほど小便臭くなっても、潮だ潮だと思い込んでいるのです。画像に臭いは写りませんから、便利なものです。
尿道口を細いバイブで刺激したり、膣内から膀胱を圧迫したりすれば、溜まっていた彼女の膀胱から小便が漏れる、吹き出る、そんなこと子供でも簡単に出来る、芸ともいえない陳腐なものです。ですから、「潮吹き」イコール尿道口から噴出す、或いは漏れる男の前立腺液に近いものという通説が定着してしまったのでしょう。
Gスポット領域が前立腺の原形だという研究もあるので、前立腺マッサージと同様の状況で「潮」が吹くことは大いにあり得る。となると、女性の「潮」の正体は「精液」なのか?このへんの結論は未だ確かではないのだが、前立腺液と成分が似ているという研究も行われている。
膣内のスキーン腺液が大量に出て出来る液体だという説も有力ですが、エロ系情報を執筆している人物で本来の潮吹きを実体験していない書き手は、定説情報をかき集めてまとめるものですから、どんどん定説が真実のようになってしまうのでしょう。まあ、滅多にお目にかかられるものではないので、それも致し方ないのでしょう。AV制作者の「潮吹き」演出も、これが仕事、特に責めるものでもありません。
困るのは、この潮吹き定説が多くの膣炎を惹き起したり、男のSEXにおける勲章のような勘違いがあることです。はっきり言って、自然に「潮吹き」な女性に出会うことはほとんど無いと考えるべきだということです。
それでは、お前は自然の「潮吹き」に出会ったことがあるのかということになりますが、あります。科学的証明も不十分ですし、実際に出会ったのも二人ですから、その実体験イコール「潮吹き」と断言できるものではありません。まあ、自然に「潮」を吹いてしまう女性の観察が出来ただけのことですので、全ての「潮吹き女性」が同様であるかどうかも不確かです。あくまで、参考程度に受け取っていただきたいものです。
@どのような状況で「潮」を吹いたか
 初めの女性は一般的な愛撫段階を経て、クリトリス及び膣前庭に口唇愛撫を行い始めて数分後、女性が潮を僅かに吹く。恥ずかしくない、素晴らしい現象であることを女性に伝え、励ます感じで、愛撫を続行。一気に「潮」が顔面を襲う。
二人目の女性も普通に愛撫を進行、クリトリス、膣前庭部の口唇愛撫を行う。この時点で「潮」の確認は出来なかったが、愛液が若干薄い感じがしたのは、「潮」によって薄められていた可能性はある。その後、指による膣挿入愛撫、親指クリトリス圧迫愛撫に移行。1分もしないうちに「潮」が吹き出る。明らかに指に沿って「潮」は噴出している。
自然の「潮吹き」は難しいテクニックは不必要、好きだという気持程度は必要だろうが、AVのように何十分も指を動かして出させるものではないのは明らか。尿道口を刺激して、動物の赤ちゃんの排泄補助みたいな馬鹿な行為をしても噴出すものではない。その時噴出して感動したものは「小便」である。
A量はどのくらい
 二人ともほぼ同量だったが、バスタオルがぐっしょり、絞れるレベルの量が見られた。女性が「潮吹き」を恥ずかしく思っていると、量は抑制されるようだが、その呪縛から逃れた場合は相当の量が噴出するようだ。高さで表現すると5,6センチは断続的に噴出す
B臭いと味
 尿のアンモニア臭は一切無かった。乾きかたは水よりも早い感じがするが、比較していないのでどちらとも断言できない。味わうほど確かめてないが、薄い塩味が感じれらた
C「潮」は何処から吹き出るか
 現実に体験した自然に「潮吹き」になる女性の「潮」は明らかに膣口から噴出していた。当該女性の感覚でも、尿道からオシッコのような感覚では出ていないそうである。この事実をもって全てを決定するのは危険だが、膣口から噴出する「潮吹き」が存在する事実は断言できる。科学的メカニズムは不明だが、Gスポットの上部には女性の尿道があり、その間には強固な組織が存在しないことから、尿道から膣内に液が激しく滲み出る、乃至は女性によっては何度も潮吹きを経験する間に潮の通路が出来上がるなどと推測できる。
D「潮」を吹いたことでSEXにメリットはあるのか
 潮吹きを目撃することで性的に興奮することはメリットだが、腰の下にバスタオル、乃至はビニールなどのケアーが必要で、手間隙が相当必要である。潮吹きがほぼ治まった後でも、シーツに濡れた部分が残るのも気になる。愛液が薄められることで潤滑力が間違いなく弱まる。これは刺激が少ない場合有効だが、刺激の強いヴァギナではスムーズなSEXに支障は出てくる。
E潮吹きの女性は気持いいのか
 聞いた分だけの話だが、直接的に快感がたかまるわけではなさそうである。相手が潮吹きで興奮しくれる、或いは潮吹きを励ましてくれると、自らも恥ずかしさが加わった興奮で、何時もよりSEXに前向きになるらしいが、「潮吹きでオーガズム」はありえないそうである。筆者の観察範囲で判断するなら、ヘビーな愛撫による興奮時に「潮吹き」は起きやすいもののようだ。逆に女性が完全に挿入モードでオーガズムに向かい始めると、潮吹き現象はほとんど影を潜める。
以上、異論も多いのだろうが、筆者の目撃体験記である。
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04.04.27 ファッションと性欲 最近フト気づいたことなのだが、子育て真っ最中の30代ママ連のファッションが、押しなべてパンツルック(ジーンズも含む)になっていることだ。たしかに子育てに奮闘している女性にとってパンツ(スラックス)ファッションの流行は棚からぼた餅である。流行と実用性がまさに一致したのだから、言うことなしの現象といえる。ママチャリで疾走するにも、子供の世話をするためにしゃがみ込むのも、気にせずにいられラクチンなのである。トレンドファッションだけに、特にダンナが文句を言うこともない。
昔は、公園の砂場で子供を遊ばせている若妻の下着や太腿が垣間見える僥倖に出会い、奇妙に幸せな気分を味わった男たちの楽しみは、ほとんどなくなった。身近の彼女達に聞いてみると、家の中でも当然パンツルックを通しているらしい。
30代夫の眼には、自分同様のズボン、ズボン、ズボンがあるだけになっているのかもしれない。夫は最近、妻のナマ足を見る機会すら無くしたようだ。精々、見せる下着だというパンティの上部がパンツから出ている程度の景観に成り下がっている。エプロン姿の妻の後姿に欲情する夫の姿は、もう日本には見られないのだ。気の毒な話である。自分と違うものを見ることで視覚が刺激され、性欲中枢が勃起命令を出すことが多い男の性欲は、少なくともファッションの次元ではスポイルされている可能性がある。パンツファッションの流行とジェンダーフリーとの関係がどの程度のものなのか定かではないが、「求められる服装、女性らしい服装」から「気持のいい服装」に女性の意識が変化している現象の一つだと考えることも出来る。
女性の自己主張としては大変立派なのだが、このような服装のトレンドが主流になるとすると、妻・女性にとって都合の悪い現象も生まれてくると思われる。服装の男性化、否失礼、「気持のいい服装」が男性・夫の視覚的刺激を減少させ、生活の中での性的刺激減少が性欲の減退に結びつき、軽度のセックスレス現象を助長する可能性は大いにあるだろう。
反面、逆に日々刺激して止まない面白いファッション現象が、女子高生のミニスカートである。これは今度は2,30代女性のパンツファッションをあざ笑うかの如き状況なのである。ナマ足とナマ腿、サービス満開状態なのである。最近では、女子制服にパンツ(ズボン)の導入を企むジェンダーフリー論者もいるらしいが、当の生徒からの評判は芳しくないようでヤレヤレである。
女子中高生のミニナマ足ファッションが性的刺激を同級生の男子や世の男どもに与えることは事実である。ある意味で町中での男性に対する性的視覚刺激を、一身に引き受けている、貴重な存在だともいえる。勿論ここで云う男性への刺激は、極めて緩やかなもので、特に性犯罪に直接結びつくような、過激なものではない。中にはその程度の刺激で異常な行動に走る男たちもいるだろうが、それは単なる犯罪者である。
彼女等が無邪気に太腿まで見せて、町を歩き平気でいられるのは、性的経験がほとんど無いか、性的快感をまだ知らないからだとも云える。ある意味で男女の性差などの知識が無いことから生まれる、無分別な選択なのかもしれない。つまりは、まだ本格的に色気付いていない証拠だともいえる。
しかし、善悪は別にして、彼女等のファッションが彼女等の肉体が成熟していると勘違いさせるに充分な視覚的刺激になっているため、大人の男どもにセックスの対象として意識付けている可能性もあるだろう。教師連中の性犯罪にもそれなりの影響を与えていると想像できる。勿論、そのことで犯罪を犯した者の免罪符などにはなりえないのは当然である。このコラムにおける視点からの推論に過ぎない。
少し前の米国人気番組「SEX and the CITY」がSEXとSEXYのファッショントレンドとして注目されたが、今風に生きるニューヨカーの女性のファッションはほとんどがスカートスタイルでパンツルックは僅かに見られるだけだった記憶がある。
つまり、生き方で男女の性差を無くそうという考えと、敵であり味方でもある男の本能(性の性差)を逆手にとる、見事に逞しく賢明な女性像が描かれていた。卑屈になることなく、武器は武器、生き方は生き方の使い分けの成熟が求められているのだろう。
教条的ジェンダーフリー論者の考えを推し進めると、老若男女全員が国民服着用なんて世界が出現する。これはもうファッションではなくファッショの世界なのだ。まあ、そんなことはどうでもいいが、男女共通に服装が双方の性中枢に刺激を与えている事実を無視してはマズイだろう。
最近の相談で、子育て中に夫がセックスを求めないのは何故?から書き出したコラムだが、恋愛、結婚、出産、子育て、このへんから夫婦のSEXに乱れが生じる。このことは妻のファッションに全ての責任があるわけではないが、一因になっている可能性は大いにある。
だから言ってるでしょう!、「夫がもっと子育てを!」という問題ではないのです。ほのかな色気も否定する人々は別ですが、男女の性差のメカニズム知識を学び、臨機応変に利用する強かな女性であり妻であり母である、そんな貴女への応援コラムでした
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04.02.04 愛のあるセックスって?  世間には、「愛のあるセックス」「愛のないセックス」などというセックスの善悪を判断する基準がある。「愛」という極めて難解・曖昧な言葉が基準値であるにも関わらず、根強い支持を受けている。男女の90%近くが、何らかのかたちでこの基準を容認している。哲学の貧困が叫ばれる中で、セックスにおける「愛」という概念だけは、いとも容易く、人々に受入れられている。このことが、大変不思議である。
仮に、セックスにおいての「愛」の概念が哲学的でないとするならば、それはそれでいい。しかし、それならそれで、セックスにおいての「愛」ってのは、どのようなものなのか、気になってくる。
愚にもつかないことを考え出してしまったが、気になって仕方がない。なぜなら、このようなセックス関連のサイトに関わると、驚くほどの頻度で「愛あるセックス」という言葉に出会うからである。使用している人々が、セックスで言うところの「愛」をどの程度に理解しているのか、フト思った所為である。
「愛」という概念を哲学、社会学、心理学などの学問領域で考えるだけでも容易ではない。とてもコラムで片付けられる問題ではない。その上、それら学問領域でも「愛」の定義は定まっていない。つまり、「愛」というものは、本当ははっきりと定義できない情操であり、その定義すら難解な、正体不明な「愛」をもって、人間の行為の善悪を律することは出鱈目に近い常識ではないのだろうか。
「愛のあるセックス」という言葉が持つ快感が、広く人々に受入れられたのは理解できる。「愛がないセックス」よりも随分マシな感じだ。しかし、「愛がある」というのはあまりにも甘すぎる言葉で、子供騙しな言葉でもある。
世間で気軽に使っている「愛のあるセックス」の愛は、おそらくアガペーの愛ではなく、エロスの愛を指しているのだろう。つまり、何らかの対価を双方が提供している「愛」だと考えられる。何もキリスト教的「愛」を語るつもりはないが、「愛」の定義では最も知られているので、この際利用させてもらおう。
たしかに男女が恋愛するには相思相愛が重要な要素だろう。相思相愛の度合いにバラツキはあるだろうが、一応そういうことになる。例え後になって、愛していたと思ったのは間違いだとか、実は身体だけ愛されていたとか反省はあるだろうが、その時は愛されている、愛しているという同等の精神的対価交換が存在している。相手の異性に愛されているかどうか、あらゆる方法で双方は確認をしているはずである。例えそれが錯覚であっても、確認は直感も含めて確認しているものだ。
そういう意味では、セックスにおける「愛」は等価交換されるのが理想だといえるだろう。
一般に「愛のあるセックス」が必要だという議論は、主に男女のセックスの出発点で起きる議論な訳で、夫婦間での「愛のあるセックス」ウンヌンは、別次元の問題である。
「愛のあるセックス」は「許されるセックス」という市民感覚は、性文化の近代における抑圧という歴史背景からの解放から生み出された言葉でもある。この耳障りのいい言葉によって、婚前交渉が認知されるようになったし、結婚を前提としないセックスも「愛」さえあれば可也へと発展した。そういう意味で、日本のセックス事情を大きく変えた功績は認めよう。
しかし、結局のところ、どうにでも解釈出来る柔軟な「愛」という言葉によって、極端な言い方をすれば、どのような状況も「愛」だと強弁する都合のよい環境を男女に与えたともいえる。そろそろ、戦後の混乱ではないが、性へのいわれなき抑圧が少なくなった現在、その目的は充分達成した言葉(言説)なのではないのか。
高校生同士でも「愛してさえいれば」セックスはOKの時代の幕を開けてしまった。最近は小中学生にまで広がる勢いである。筆者はだからといって、若年世代のセックスを頭から否定するつもりは毛頭ない。個人の勝手である。小学生であろうと、男子であれば勃起と射精できれば医学上、禁止する根拠は乏しい。女子は初潮があれば、原則妊娠する可能性があることから、これも禁止する理由が乏しい。
若年者のセックス経験者は必ずと言っていいほど、「二人は愛し合ってます」という言葉を口にする。聞きかじりの意味だとしても、真っ向彼らの愛を否定することはできない。当事者は多分本当に愛し合っていると思っているわけで、余人がどうこう判断できるものではない。
良くも悪くも「愛のあるセックス」という言葉は既に、ゾンビのように予想外の方向に走り出していることになる。
この「愛のあるセックス」「愛のないセックス」の区別は、公娼制度を排斥するために、性行為に善悪の色分けをしようとしたことに由来しているのだろうが、皮肉にも素人女性の肉体が「愛」という言葉を飾りつけることで、安易に商品化されるリスクを生んでしまったようだ。ここでいう「商品化」は単に援助交際のような意味の商品ではなく、「愛」の交換としての肉体という意味である。愛を継続させる手段として、痛いけど彼の愛に報いようとする少女心理に、後ろめたさはない。
教育機関で性的問題に直面している人の中では、「愛あるセックス」という言葉が誤解を招いていると指摘している。出来れば「思いやりのあるセックス」とか「責任の取れるセックス」とか、そんな言葉に変えた方がいいのではと、答えている。自由主義の原則との整合性が問われる厄介な問題だが、「愛」という言葉が抽象的で個人的過ぎるにも関わらず、汎用言葉になっているのはたしかにおかしい。。
実は大人の世界にも「愛のあるセックス」性善説への疑問がある。少なくはなったが「お見合い制度」というのは、「愛のあるセックス」になるのだろうかという疑問である。社会的に調和の取れた男女を出会わせ、結婚することを誘導するわけだが、その経緯を見る限り、「愛」が育ってから「セックス」をしているかどうか、相当に疑問である。見合いの後、数回のデートで双方承諾の有無を仲人に知らせる。次に結納、そして結婚である。昔と違い、その承諾の有無は自由だが、「愛」が育つたという状況には疑問が残る。
「いいえ、我々は愛し合ったから承諾したのです」との反論も聞かれるだろうが、第三者的には納得出来ない。見合においては、承諾さえすればセックスが原則保証されているのだから、愛してるからセックスした分類に入れることには抵抗がある。
この場合「愛あるセックス」ではなく「手続きを経たセックス」というべきである。いい意味での等価交換セックスだという考えにも一理ある。
また、愛もへったくれもない、お互いその日はヤリタカッタからセックスに至った。終電もないし、タクシー代ももったいないから、仕方なく泊まったら迫ってきたので、まあイイカくらいの気持でセックスしてしまった場合でも、そこから愛に発展する場合もあるだろう。このような場合は「愛のないセックス」から「愛のあるセックス」に移行するわけで、初めは「愛のないセックス」だともいえる。
どうもこんな風に考えていくと、「愛あるセックス」なんて言葉は、大変な欺瞞なのではないかと思わざるをえないわけです。
そもそも、超個人的な問題である「セックス」を「愛」などといういい加減な言葉でお茶を濁したことから、間違いや誤解が拡大した考えられる。まして「いいセックス」「悪いセックス」も余計なお世話である。
愛があろうとなかろうと「セックス」は原則自由だという理念が根本にあるということを強調すべきである。セックスは自由ですよ、何時何処ででも、誰とでも、どのような形のセックスも自由にしていいのです。
ただし、法治国家である以上、法律上禁止されたセックスを実行すると罰せられますということでいいのではないのだろうか。罰を承知でセックスに励むのは、これも個人の自由だといえる。少なくとも「愛」などという訳の分からない言葉に一喜一憂する必要はなくなる。
もっと重要なことは、「何でも自由」への「権利と義務」そして「自己責任」の存在を明確に、出来れば具体的に伝える情報が求められるのだろうが、そう簡単ではない。このことは本来「セックス」に限らず求められる自由主義成立の絶対条件なのだ。この自由の権利と義務、自己責任への情報が極度に不足している。あまりこの部分に拘ると、横路に逸れすぎるので止めるが、日本全体に自由への義務感が欠けた社会が形成されているのは事実である。
セックスにおける自己責任って何だろう。妊娠したら育てる義務?そりゃ無いな。
育てる気がない場合、妊娠させない避妊義務、多少あるか。
間違って妊娠したら、強制的に結婚させる?これは無茶苦茶な義務。
間違って妊娠した場合に、中絶費用を男性側に捻出させる義務、これは意外に効くだろう。序に、中絶による女性の将来リスク担保の慰謝料50万円の支払い義務も中々いいぞ。
STDなどを相手に感染させない義務、まあ義務といえるだろう。
自分が感染症などに感染していないことを確認する義務、チョット無理な義務のようだ。
セックス時に、相手が痛みを訴えるにも関わらず、強引に遂行した場合、準強姦罪適用、こりゃ行き過ぎだ。
少し冗談の世界に入ってきたが、セックスにおける自己責任をもっと具体的に明記し、全ての世代の男女に認知してもらう情報の発信が痛感される。
相当に話が混乱してきたが、要するに筆者は「愛あるセックス」という言葉に反対なのである。「一を聞いて十を知る」時代は終わった。あらゆる常識の定義も恐ろしいスピードで変化している。このような時代に曖昧な定義は混乱を助長するに過ぎない。悪用する知恵はドンドン発達するのだから、誰でも理解できる、言い逃れが出来ないセックスへの具体的提言が待たれる。
特に教育現場では、生徒の方が性経験が豊富などという皮肉な逆転現象まで起きている。文部省とか日教組のゆとりと甘えの構造から、これらの提言を期待しても無理である。本来言論界が活躍すればいい場面だが、それほど魅力的テーマでもなく、議論が活発になるとも思えないし、その論争を必要とする人々が読み知る可能性もないだろう。
短絡的な広報戦術だが、タレントや人気文化人による特集徹底討論番組「愛のあるセックスならしてもいいの?」などとネーミングしたテレビ番組がいいのかもしれない。「愛」があればすべてOKといった勘違い社会層にはこのような手段も有効だろう。民放ではスポンサーが見つからないか。否、コンドームメーカー、製薬会社、ホテル業界、ベビー用品メーカー、産婦人科、弁護士会など等無いこともないのでは。NHKでは討論に参加する人選で、もうアウトな番組になり、見せたい人種が全然見ない番組になってしまう、それでは意味がない。やはり民放がするべきである。
ちなみに、討論出席者を考えるのも面白い。この遊びの人選をもって、「愛あるセックス」コラムは終了する。
主な出席者
男性:北野武、宮台真司、加藤秀一、木村拓哉、森岡正博、石田純一、岩上安身、阿部輝夫、山崎拓、窪塚洋介、梅宮辰夫、田中康夫、村上龍、渡辺淳一など
女性:上野千鶴子、北原みのり、福島瑞穂、大川玲子、松田聖子、愛染恭子、鈴木沙理奈、江角マキコ、鷺沢萌、瀬戸内寂聴、林真理子、唯川恵、岩下志麻子など
多少古くさい顔ぶれだが、あまりに若いと話すらしない可能性がある。
否、TV番組もインパクトないね。逆に滅茶苦茶な話になってしまいそうだ。ゲームソフトがいいかもしれない。世の顰蹙覚悟で作るべきである。
男女別々に100人くらいのキャラクターを並べておき、個性の異なるキャラクターとベットイン・インサート出来るかどうかを競う。出会いからベットインまでには、ありとあらゆる障害が待受け、挑戦者の対応をチェック、次へのステップの可否を決めていく。
A子に通用した答えがB子ではブーになる。人によって受入れ方が様々なものだと感心するだろうし、自分も色々の考えを知ることが出来る。何か似たようなゲームが既にあるかもしれないが、障害となる設問如何では、性教育にもなるだろうし、初めてのセックスに望む人々へのメッセージとしても有効かもしれない。ひとつのキャラクターへの挑戦は3回でタイムオーバー、ソフトが消滅するのもリアルでいいのでは・・・今回は遊びすぎかな・・・おわり
肌がよろこぶ5日間【DACCOトライアルセット】
03.11.20 産婦人科医の知らない性交痛  何故、女性でもない私が性交痛をテーマに取上げたかというと、当サイトの「男女の相談室」に寄せられる質問の50%近くが、性交時の痛みに関するものだったことに由来する。そして、その多くが医師の診断を受けた、或いは治療しているにも関わらず、快方に向かっていない、苦しみ悩みを打明けている。
彼女等の痛みによる苦しみは、セックスが出来ないというレベルを遙に超え、自己否定の領域に入っている感じさえしてしまう。
私自身も顧問の医師も相当の知識を有しているはずなのだが、明確な解決方法を見出せない場合が多い。
たかが性交痛、命に関わるものでもないと考えるのは早計である。どうも、閉経など中年期以降起こる性交痛を除くと、夫婦・男女関係に相当のダメージを与え、人生の危機を迎えることも大いにあり得るようだ。セックスレスという時代語もあるが、多くの男女にとって、セックスは生殖を含めた男女のコミニケーションツールとしての存在はいまだ健在のようである。
一般的に性交痛は外陰部の疼痛と内陰部の疼痛に分かれるそれぞれ病変が見つかることで、治療さえすれば解決する可能性が高いものなのだ。(外性器の炎症・傷・性感染、会陰切開の傷、尿道周囲・バルトリ腺部の炎症、膣痙、萎縮性膣炎、処女膜の異常、膣の奇形、閉経によるホルモン不足、骨盤内の各種腫瘍、骨盤内感染症、子宮内膜症、子宮後転症など)
産婦人科で診察を受けた患者の多くは、何らかの病変が見つかり、治療・回復しているようだ。しかし残りの器質的原因が見つからない性交痛患者は、「相手のセックス下手、前戯不足による愛液不十分、セックスの経験不足など」ということで、潤滑ゼリーなどを処方されて片付けられているようである。(性交痛に詳しい婦人科医に出会えば、当然あらゆる角度から性交痛に対処している)
「そんなわけない」と、強固に原因究明を求める患者には、心因性疼痛かもしれないので、心療内科を紹介しましょうと、逃げに回る傾向もある。或る意味、訳のわからない治療をするよりは、賢明で良心的である。
この心因性性交痛とうのが分かりにくい。ようするに、心理的原因で専らカラダ=性器に痛みを感じるということなのだが、心因性な痛みなら何処に起きてもいいものなのに、どうしてよりによって性器に起きるのか意味不明でもある。(最近の情報によると女性のEDという概念が米国などで大いに研究されており、治療の道筋など期待できる状況になっているらしい。どうも、女性の性交痛と生殖器の内部外部の血流不足に注目しているらしく、バイアグラと発想は似ているようだ)
性交・セックスに対して不安・嫌悪などがある場合、膣内分泌液の不足でペニスの挿入及び摩擦によって、痛みがでるということになる。もっと重大な症状は、膣口付近の筋肉の強い収縮によってひき起こされる、ワギニスムスでこの場合、ペニスの挿入は殆ど無理らしい。そして、セックスへの不安・恐怖・嫌悪などを持つ場合、この二つの現象が同時に起きていることが多いらしい。
同じ心理的疼痛だが、何度か挿入で痛みを感じたために、「痛みの刷り込み」が起きて、痛い!と感じてしまう現象もあるようだ。
また初体験の場合には、稀に処女膜の肥厚や強靭といった問題で、挿入が不可能なことが見られる。この場合にも、上記分泌液の不足と軽度の膣痙が同時に見ることが出来るらしい。
そもそも性交痛という表現が曖昧である。膣にペニスを挿入出来ないのも性交痛なのだが、この場合「挿入痛」のような表現が分かりやすい。また、性交後に痛みを感じる場合は「性交後痛」がいい。性交中に痛みがあり、途中で中止を余儀なくされるような性交痛こそが「性交痛」。ひりひり程度の痛みが性交中に起きるのは「性交軽痛」などと、ある程度症状に見合った表現が必要なのではと思うのだが、専門家に言わせると「医学の用語はそもそも生理学的な次元から決定されている。症状形態で病名など決められないよ」と叱責されてしまった。
話を戻すが、心因性とか心理的影響で性交痛を起す患者の原因は性に対する嫌悪が考えられるようだ。夫の不倫、夫のED、強姦などの性的体験、親族からの性的イタズラ体験、母親から受けた封建的性教育などによって、セックスは嫌なもの、いかがわしいもの、不潔なもの、痛いものなどに対する、身体的防御反応が起きるといわれている。これらの原因が全く見当たらないと、今度は一般的に言われるところの心身症と診断されることも多いらしい。
患者はこの領域まで近づくと、ほとんど雲を掴む世界に入ってしまう。つまり、早い話が「私の膣の痛みは精神病?」という、新たなストレスに襲われる訳である。
ここまで来て、治療を放棄する患者も多い、治療を実行して治癒する者もいるが治癒しない患者もいるようだ。この痛みの問題は何もセックスに関わる痛みに限らず、多くの原因不明な「身体的疼痛」が存在するが、器質的治療分野の進歩は著しいのだが、いわゆる心因性といわれる分野の疼痛の解明は道半ばな状況が続いており、医学を含む科学の進歩が待たれる。
これでコラムが終結すると「お前は何が言いたいの?」と言われそうだ。
そこで無理矢理次元の違う、社会的現象によって惹き起される「社会的性交疼痛」なる、新語を提供してみようと思う。
まず初めに、痛みへの経験不足が惹き起す「痛み恐怖症候群」の存在に注目したい。これは、軟弱な思想の蔓延に原因がある。つまり、「危ない!」ことを避けて通る教育に起因する。家庭でも学校でも、子供に痛みを感じる経験をさせないために、あらゆる努力をしている現状に問題がある。痛みへの体験不足が、いざ初めてという性交で露呈する。そして、その後痛みがないにも関わらず、性交中に痛みを感じてしまう。愛しているはずの、優しいはずの夫または彼が自分の肉体に苦痛を与える、アンビリーバブルなことをされている。彼女は肉体的苦痛と同時に精神的苦痛を味わい、大きな混乱に陥ってしまう。最近の医療の世界を見てみると、無痛・・・という治療システムが人気のようだが、社会の中に「無痛・・・」を望む、マーケットが出来上がっていると言えるだろう。つまり、現代人には「痛みへの恐怖」が、必要以上に蔓延している傾向があり、注射一本でも痛くない注射が求められているのが現状だ。(暴力全否定が善である現在の社会的コンセンサスには教条主義の脆さが存在しているということだろう)
次に考えた原因は「陰茎肥大」という現象である。残念ながら現在の20、30代男性のペニスのデータが入手出来ないので詳しい分析は無理だが、推測は出来る。まず、コンドームのサイズに注目すると、メーカー各社が輸出用として製造していたキングサイズを国内でも販売し始めた。コンドーム販売業者の情報でも、キングサイズの出荷が好調だというデータが確認できる。10、20代のペニスをネット上で調べると、見るからに陰茎が太い、大変立派なペニスを観察できる。不思議と亀頭部は50,60代のものと変わらないのだが、異常に陰茎だけが成長している。つまり、白人男性のペニスに形状が似てきたことが分かる。日本人の遺伝子にはないはずの、この陰茎の肥大は実は「ペニスの肥満」と見ることも出来る。日本人の海綿体筋の能力を超えた肥満ペニスは「怒張」と表現されるような「勃起」を見ることが出来ない可能性が高い。日本人のペニス進化の過渡期とも考えられるが、単なる肥満と位置づけた方が正しいようだ。問題なのは、彼らとペアーになる日本人女性の処女膜・膣口・膣が相対的に変化しているかどうかという問題が重要になる。(自在に伸縮する膣という常識は当て嵌まらないミスマッチ)こちらはデーターがあるが、世代間での女性の性器に大きな変化は見られていない。
つまり、彼らの肥満ペニスはジャストフィットなパートナーを見つけるのが大変なレベルまで変化をしているということも出来る。ました初体験の年代は低くなる一方で、女性の膣が未成熟な状態で、この肥満ペニスと遭遇するリスクは増大していると考えられる。
初体験に限らず、未完成婚というわれる、結婚したのに一度も性交が出来ない夫婦の中に、このケースが当て嵌まることもあるのだろう。
肥満ペニスの特長として、勃起力が重みに耐えかねている点も大いに問題だ。熟練したパートナーとのセックスでは、勃起の強度が重大な意味を持たないだろうが、処女との性交や新婚時のセックスにおいては、ペニスの強度が相当重要な要素を占めている。器質的問題や充分な前戯に問題がない場合、経験の浅いセックスでは男性側にある程度の強引さが求められる。これは男女のコミニケーション中では許容の範囲の暴力的行動とも思われる。にもかかわらず、肥満ペニスは入口の障害を超越する為に時間を費やし、パートナーに必要以上の恐怖の時間を提供してしまう。仮に挿入出来ても、初めての異物の侵入乃至は経験不足の膣は肥満ペニスによって、必要以上の痛みを経験する。
この肥満ペニス現象が社会的問題になっていないのが不思議である。おそらく、性交痛の情報の多くが、婦人科領域で語られ、そこからの発信が殆どであること。大きいことは良いことだという言説が未だに幅を利かせていること。膣は伸縮自在という常識で充たされていること。男性のペニスへの関心がアングラな世界に取り込まれてしまっていることなどなどなのだろう。
余計なお世話かもしれないが、「性交痛」に関する研究はどうも不十分な状況にあるようだ。
あらゆる性交痛に対処するために、婦人科、神経内科、泌尿器科、ペインクリニック、脳神経外科など多くの医学・科学領域の横断的情報交換が必要な時代が到来しているのではないのだろうか。
「性交痛」に対するネット上の情報も「通り一遍」で不十分な感じがしている。にもかかわらず、様々な「性交痛」で日夜悩み、自己否定の領域にまで落ちこむ人々の存在を無視することは出来ないと、当サイト「男女の相談室」を通して感じる今日この頃なのです。おわり
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03.10.13 続発する略取誘拐事件  今年1月から8月末までに発生した略取誘拐事件は144件。未成年者の被害は104件で、13歳未満の少女の被害者が48件と目立っている。9月以降も須賀川で小6女児、村上市で中3女性徒が略取誘拐佐渡島に監禁、福岡で小6女児が危機一髪、大阪で中2女性徒ワンボックスカーに押込まれるも自力脱出、袋井市で小4女児車に押込まれる、熊本で女子高生連れ去り、携帯電話で助け求める、沖縄で未成年者略取未遂事件続発、桑名で小6女児無理矢理乗用車に連れ込まれる、東京高1女性徒が暴力団員などに8日間監禁、福岡で18才少女が大学生らに略取監禁強姦され解放など未成年者略取誘拐や逮捕監禁事件が連鎖化しようとしている。未成年者ではないが、大人の女性や男児を狙った、略取・監禁事件も多発している。
10月10日現在までの女児略取誘拐事件で死者などがでていない点は救いであるが、それでよしとするものでもないだろう。犯行の動機が極めて短絡的で計画性に乏しく、無気力で突発的な発作のような感じから、模倣犯、愉快犯の可能性も高い。その結果、被害者が大きな被害を受けずに救出・脱出しているケースが目立つ。その点では不幸中の幸いともいえるが、このような単純な犯行を犯す者が何時なんどき、凶暴性を発揮するかと考えると、この異常犯罪連鎖の背景を探る必要がありそうだ。
未成年者の略取誘拐事件の連鎖は新潟金井町の中学3年女性とが11日間にわたり佐渡島に略取誘拐された上、自宅に監禁されていた事件が引き金だったような気がする。事件の詳細を知った犯人が「自分ならこうするのに」といった、妄想にかられたことは想像できる。一種の模倣犯、愉快犯と括ることも出来るが、根本的にはゆがんだ男の弱者支配欲と保護欲、性的欲望が蠢いているような推測を捨てきれない。
遡ると、新潟(何故かまた新潟なのが不思議だが)柏崎における小学4年の少女を略取誘拐の上、9年間に及び監禁したショッキングな事件が思い出される。犯行に及んだ背景全てを一律に論ずることは出来ないが、男の支配欲と保護欲や性的欲望が根底に存在するであろうことは想像できる。略取誘拐、逮捕監禁と性犯罪である強姦、強制ワイセツは犯罪として区別されているのだが、女性・女児に対する略取・監禁などの犯罪は根源的には同種の動機が隠されていると考えることが妥当である。被害者への人権配慮などの観点から、それを区別することに異論はないが、犯罪の根底に流れている、犯罪者の犯行前の心の中には、同様の妄想が膨らんでいたことを重視すべきである。
取調べに対して「友達になりたかった」「一緒にいたかった」「単に可愛かったから」などと、さもワイセツが目的でなかったような供述をしているようだが、略取誘拐で金銭を求めない場合、その行為の成功のあかつきには何を満足させようとしたのか。犯人の心の中を推し量る情報は乏しいが、動機における軽減を狙った自己保身の言葉が、オーム返しのように口をついた程度なのだろう。これら一連の略取監禁事件では金銭の要求などがない点から、金銭目的でないことは明らかで、略取監禁の延長線上に、性的目的があったと考えることに無理はない。(多少短絡的な結論だが)これら犯人の性的対象が若年化している点にも注目する必要がある。各種報道からも分かるように、最近の児童ポルノや強制ワイセツ犯罪多発には、現代男性の虚弱化した精神構造が垣間見える。本来、性の対象となるべき世代の女性(彼らよりも知的で体格もよく、気力も充実している)への気後れが、このような弱者を付狙う行動を誘発しているのは、皮肉な現象だともいえる。児童の体格成長過程に著しい変化が出ていることも見逃せない。このような環境の変化は略取誘拐の延長線上にある強姦・強制ワイセツの被害者の低年齢化に一層の拍車をかけるものと考える。
小児性愛(ぺドファイル)という言葉を使うと、世間にそれほど存在していない感じがするのだが、これを「ロリコン」という和製英語に言い換えると、あちこちに心あたる人間の存在が見えてくる。援助交際、携帯メール、ブルセラなど少女が「社会的性システム」への参加は容易な環境になった。また、身近にいて信頼すべき多くの時間を共有する男性教師の女児に対するワイセツ事件は後をたたない。本サイトのトピックスでは、あまりの多さにニュース性を認めないことからも、その日常性が伺える。このような少女・女児の生活環境の変化と、その環境の変化を歪曲して自分に都合よく受止めた「ロリコン」が、自己中心のハーレムを妄想する機が熟してきたとも考えられる。
いわゆる「ロリコン」の現在の社会的傾向は、予備軍の予備軍として、日本人の異性を見る価値基準に遭遇する。「モーニング娘」の絶大な人気や「ジャニーズ系」好みの女性群の存在が証明ではないだろうが、「逞しい、頼もしい、美しい、しっかり」などから異性への価値基準が「可愛い」というキーワードに支配されている傾向が見えてくる。男女に共通する価値基準だが、現時点では男性側が圧倒的に、その価値基準の虜になっているようだ。美少女系雑誌や美少女漫画・アニメと彼らの嗜好性にマッチした市場も成立している。
全く異なる視点だが今回の一連の事件に共通するキーワードは「自動車」である。
自動車という無機質なはずの「動く箱」の中には、多くの心理的罠が待受けている。考えすぎな感じもするが、エンジンの爆発リズムはドライバーを攻撃的にするとか、ドライバーは一時的に無機質な車と同化し、人間性が失われるとか、運転による性格の変化は喜怒哀楽の中の「怒り」だけを惹起するなどの心理分析にも、ヒントが隠されているような気がする。また、人によっては、自分がスーパーマンとかスパイダーマンに変身したような錯覚に陥り、「何でも出来そう」「何をしても切抜けられる」などという覚醒状態になる人間もいるらしい。そのような人間が、窓に目隠しを施した、RV系など車高の高い車で走行している場合、運転席の後をみると、そこには自分だけの機密性の高い密室が用意されている。さも略取誘拐という衝動を誘っているかのようでもある。犯罪者を弁護するつもりは毛頭ないが、最近の車の流行には、そのようなことを”フト妄想”させる罠が潜在している点にも注意が必要である。
ここまで最近の略取誘拐事件の連鎖性をテーマに考えを進めてきたのだが、どうもこのような事件は模倣、愉快犯だと簡単に結論付けられない、現代の社会背景が見えてくる。つまりこれらの事件は一過性のものではなく、今後とも継続的に起こりうる社会的背景を持つ事件であることを示している。
しかし、これらの背景には時代の欲求から生れたものもあり、それらの疑われる要因・原因を単純に排除できるものではない。
となると、相当の部分で被害者となる可能性のある側の自己防衛が最も重要視されることになる。
小学生以下の子供と女性が被害者となる犯罪が、95年から急増している。2000年子供が被害者となった略取誘拐、強姦、強制わいせつが5年前と比べ、30%前後増加している。子供が襲われる事件の半数は、午後3時から5時の下校時間帯に起きている。現時点で警察や教育機関からは以下のような注意が子供達や親に発信されている。
恐いと思ったら大声で叫ぶ。 外では一人で遊ばない。遊びに行くときは、どこでだれと遊ぶか、家の人に言ってから出かける。暗くなったら一人で外出しない。おかしいと思った食べ物、飲み物は口にしない。怪しい人や車を見たらすぐ先生や家の人に話すなど。
だが、最近の女児略取誘拐事件のケースにおいては、このような日頃の注意が意味をなさない、力ずくの犯行であり、被害者の不注意などの範囲を超えた状況で略取されている。
力ずくの犯行を考えると、その防止対策は限られてくる。集団登下校の実施、ボランティアによる監視体制、上記子供達の防御手段の徹底などだが、走る凶器を携え高ぶった健常な男の力ずくの行動を阻止することは容易ではなく、阻止の時点で不測の事態も考えられる。具体的な対策としては受身だが、測位システム「GPS」を利用した位置検索システムのサービスを受けるのが有効かもしれない。(そんなに高くない)
略取誘拐事件が今後も増加傾向を示すか、その延長線上にある、強制ワイセツ・強姦事件の発生率が増加するか予断を許さないが、男女の価値基準の変化、ロリコンの増加傾向、自己中心的車社会の増幅、成人女性の男性からの自立傾向、女児の成長速度、情報機器の更なる発展など、広い意味での性対象が低年齢化する不安は増すばかりである。
コラムにおいて、その防止策などに詳しく言及することは出来なかったことは残念だが、これら一連の事件の底流に流れる原因・要因には、人類の進歩とか進化との関連性が強すぎて、コラムレベルで論じることは僭越なのだろう おわり
大豆のいいとこ、ギュッと詰めました!
03.07.31 少子化対策 蛮勇論1 7月に少子化社会対策基本法が可決、成立した。基本法は「子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会」の実現をめざし、保育サービスの充実などの基本的施策を規定する一方で、国と地方自治体が不妊治療に取り組むことも定める。国の少子化対策に初めて妊娠支援策が盛り込まれた。基本法は、少子化の現状を「有史以来の未曽有(みぞう)の事態」と位置づけ、国と自治体に少子化対策の策定と実施の責務、企業に協力の責務を課す。さらに、国民の責務も規定した。
一言で余計なお節介なのだが、政治・行政の「何かをしている」実績づくりには貢献するだろう。しかし、この的外れな法律で、「日本の人口がゼロになる日」が遠のくとは到底考えられない。
理由の第一は国家統治に都合のいい家族制度が社会構造上、大きく変貌しており、いまさら「子供を産み、育てる夫婦」が「世の鏡」では国民の賛同を得ることなど想像すらできない。。この「御ふれ」に肯く世代も存在するだろうが、彼らには残念ながら子供を産む能力を持ち合わせていないのだから、なんら効力を生むことはない。しかし、皮肉なことに有権者であるため、選挙においては、この法律が有効に作用することもありうる。その点で有効なら、実質的に無効でも、政治家にとってうれしい限りなのかもしれない。
第二の理由は「少子化」の原因を子供を産める世代の人々の「建前論」(子育てが女親に偏りすぎて、産む気になれない。産休、育児休暇をとると、その後職場で不利になる。保育所・幼稚園が少なすぎる。金銭的に無理などなど)を真に受けて、その対策を考えた点である。彼らの「ホンネ」は全く違うのではないだろうか。夫婦である以上、最低子供二人は欲しいと考えるのは自然なのだが、核家族化された30前後の若夫婦を想像すれば、二人の子供を産み育てることがどれほど困難なものか、馬鹿でも分かりそうな話である。2DK程度の広さの賃貸マンション暮らし、夫の収入は精々400万、夫婦でのフィットネスは欠かせない、見た目のいいマイカーも維持しなければ、レンタルビデオで映画鑑賞は欠かせない、メンタルヘルスの立場から月一回の豪華レストランも忘れてはならない。海外旅行も忘れられない。携帯は生活必需品。日頃はユニクロファッションでもブランド志向も忘れることは出来ない。そんな夫婦に、或る意味でどうにも手のつけられないヨチヨチ歩き回る子供が1人。子育ての全てが初体験、核家族のつき合う隣人は殆ど同世代で、知識はドッチモドッチ、頼りは田舎の実家への「子育て相談電話」。夫の会社では50代のリストラが一段落、来年からは30代がその対象との話で、うっかり意味のない休暇をとる不注意は出来ない。まして、育児休暇など思いも及ばない。厚生年金だって「当てにならない」、貯金の心配もしなくては、公立中学なんかに行かせたら、将来子供に恨まれる。教育は塾だ私立だ。「嗚呼、俺たち大丈夫なの?」真面目に将来を考えると、この若夫婦が第2子をもうける可能性はゼロに近い。しかし、これが若夫婦の現実と考えるのが妥当なのである。2DKのマンション、マイカー、フィットネス、レストラン、携帯、ブランド、そんなもの贅沢ってものだという考えは通用しない。そのような生活を誘導したのは、今までの政治行政経済の活動によって生み出された、彼らへの生きるためのツールなのだから、若夫婦はガマンしろなどと言える人間はいないはずである。彼らはサラ金地獄に陥っている訳ではないのだから。自前で立派に生活を成立させているのだ。つまり、彼らの生活は金が掛かるのである、僅かな児童手当で埋め合わせることなど出来ない金額が不足しているのである。保育所を増やしたからといって、彼らが第2子を産む気になるものではない。育児休暇を強制的にとらせたから、子供を産む気分になるなんて、アホクサイ話なのだ。
第三の理由に「未婚化現象」への対応に至っては、「村おこし」的発想で、評価する気にもならない。語弊を怖れず言うならば、そんな「寄合」に出席するようだから、パートナーが見つからないのよ。(この「未婚化現象」はあらためて詳しく)
本質的に日弁連が宣言文を出したように、この法律には「法律上の問題」も多く含むが、それ以前の「社会現象とその心理分析」の不足が根本的に答えをミスリードしたと思われる。否、アホな政治家は騙せても、小利口な役人たちは「少子化対策基本法」なるものの行く末を承知で「便乗商法」を考えたのかもしれない。不妊治療や幼稚園への妙なくらいの肩入れには「癒着疑惑」さえ感じさせる。序に消費税10%導入の地ならし法整備とも受け取れる。
確かに「少子化」は「高齢化」との相対関係からみても、経済問題を中心とした、我が国の大きな課題なのは誰もが認めるところだ。少子高齢化人口構成が現在の社会保障制度を根幹から揺るがすのは事実である。労働に寄与する人口の減少は経済成長にも大きな影響を与える。不確かだが、少子化の中で育成される子供達の社会適応能力への影響も懸念される。
しかし、だからといって、個人の産む・産まない権利に政治がプレッシャーをかける行為や非婚、子供拒否のライフスタイルを蔑む風潮の喧伝行為は万死に値する。産まない女性、結婚しない女性への差別的法制度や政治家の発言は言語道断なのである。
それでは、何も対策を打たずに、社会の成り行きに任せろというのかという、反論に出くわすが、その通りというのが結論の一つではある。ただそれでは、このコラムの意味も不完全燃焼、少しは知恵を働かせてみようではないか。つづく
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03.08.07 少子化対策 蛮勇論2 少子化はすでに1970年代前半にはじまり、その後90年代に入ってからは政府も様々な対策を講じたが、出生率の低下はその後も加速し、2003年には1.32を記録している。これは我が国の少子化対策が全く効果がなかったわけだが、この反省もないままに再び見当違いの基本法を創りだした。
「蛮勇論1」で述べたとおり、バブル最盛期に大人になった世代は冷戦構造の崩壊世代とも一致する。不確実な世界観の中で大人になり、彼らの育つた時代に周りにあったものは、共稼ぎ、鍵っ子、週休2日制、カラオケ、ディスカウントストアー、ファミレス、ウォークマン、パソコン、電子レンジ、CD、宅配便、求人難、株高騰・暴落、愛人バンク、ディズニーランド、総中流時代、いじめ、ファミコン、バブル、バブル崩壊、携帯、PHS、衛星放送、J1、ビデオカメラ、Q2、ポケベル、インターネット、カーナビ、DHA食品、デジカメ、DVD、援助交際、たまごっち、ポケモン、さぷり、赤ワイン、バイアグラ、むじんくん等など、それ以前に3C新三種の神器(カラーテレビ・カー・クーラー)は当然のように家の中で存在感を示していた。つまり冷戦構造状況下での高度経済成長とそれに伴う物質文化の繁栄を一身に享受して育った世代なのである。頭の中では、もう時代は変わったのだと理解しているのだが、日常の判断は以前と何の変化も見せられないのだ。そのことが悪いとは言えない、誰が彼らを責める権利を持っているのか。そのような環境で育ち、肌に染付いた生活感覚、意思の方向性は容易に改まる事はない。年寄りがモノを捨てない「モッタイナイ指向」とドッコイの単純な話なのだ。そのような世代の人々にとって、子育ては非常に苦行なのである。核家族化された都会の若夫婦にとって、子育ては「自己犠牲」そのものに感じられると言っても過言ではない。自分たちも含めての話だが、「親孝行」「公共道徳」「常識」は今や無いに等しい。まして、自分の子供が大人になる時代には、どんな「恐ろしいこと」が待受けているか、想像すらつかない。少なくとも「敬老の精神」などというものが、「嫌老の精神」になっている可能性すらあるのだ。このような状況で「ひとり産んだだけでも上等ジャン」精神が生まれるのも肯ける。『充分すぎるくらい「自己犠牲」したよ、これ以上自分の楽しみを削るつもりはないからね』その通り、無理する必要はありません。必要以上の度を越した子育てや教育情報に追随しようとする「マニアル世代」は所謂「常識的判断」に弱いのです。ですから、情報通りのことをしようと疲れ果てるわけです、お金も必要以上に消費しますから、夫の小遣いなどは逼迫することになります。その結果でもないのでしょうが、子供は一人でいいと考える傾向は夫の方が強いようです。このように考えてみると、都会の核家族家庭に多くの子供を求めることは、現在法整備に躍起になっている政策をいくら実行しても、税金の無駄遣いとなることは、ほぼ確実です。
面白い現象とでもいうのでしょうか、最近、地方都市に住む3家族と出会う機会があったのですが、ここの若夫婦には子供が3人、3人、4人も居るのです。状況は観察するまでもありませんが彼らのジイサン、バアサンが元気を持余しているのです。その上、2家族などは曾じいさん、曾ばあさんまでが元気なのです。ジイサン、曾じいさんは共にリッチな年金生活、「モッタイナイ精神功労者」ですから、孫、曾孫に掛かる金など幾らでもあるのです。10人くらいは多分育てられる余裕なのです。若夫婦は自分の子供が今何処に居るのかすら気にしていない様子なのです。誰かの所にいるに違いない程度の認識です。夫婦は別々に自動車を持ち、車庫もチャント借りているようです。決して夫が高給取りであるわけはありません。しかし、彼らは子供が居ない時以上にリッチな生活を知らずに享受しているわけです。
この辺に、我が国の少子化対策の一つのポイントが隠されて居るようです。少子化対策は地方都市を狙えです。都会の核家族対策は後日でよろしい、二世帯、三世帯同居世帯の夫婦が4人5人と子供を産んでくれる政策を考えるのが効率的である。経済的支援や企業の労働条件の緩和、保育所の整備などに頼っていては、役人の「仕事つくり仕事」を後押しするだけなのです。全ての2世帯家族がこのような環境に無いともいえますが、このような世帯が地方都市には意外と多いのは、手が無いわけでもないということです。つづく
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03.08.19 少子化対策 蛮勇論3 30代世代を中心とした都会に住む核家族に対して、どうしたらもう一人子供を産んでくれるかの政策は少子化の歯止めに与える影響は非常に僅かなものになるでしょう。何故なら、彼ら夫婦はほぼ二人の子供を既に設けており、これ以上子供を産む可能性はゼロに近からです。彼らが求める、男性の育児参加とか保育園の充実要求は、現在の生活のコンビニエンスを求めているわけで、よりコンフォタブルさを求めている傾向に近いと考えられるからです。勿論、彼らの生活がより良くなることに異存はないのですが、次元の異なる政策を打ったに過ぎません。我が国の合計特殊出生率の低下の最も大きな問題が晩婚・非婚化にあることは周知の事実です。この部分への抜本的対策が打出されない限り、効果的少子化対策は実現しないでしょう。
来年度から独身男女に出会いの場を提供する市町村事業を補助対象とする方針を固めた。個人の「生き方」にも口をはさむとは、とんでもない愚挙なのです。そもそも国・地方自治体が行う「男女の出会いの場」に何が期待できると言うのでしょう。危険はあっても、ネット交際の方がまだしもだと思います。おそらく年収1000万の役人の職場を増やすだけです。多分、成婚までに一組あたり500万円くらいの税金が投入されるだけです。尚且つ、彼らが子供を産む保証はありません
晩婚・非婚の原因は人間の文化の問題であって、政治家や役人が顔を出す領域ではないのです。特に結婚できない中年男性16%の救済が目的のようですが、21世紀の女性が結婚したい条件を持ち合わせていない男性は、40代だろうと20代であろうと、女性からパートナーとして選択されないわけで、出会い程度で成婚する問題ではないのです。本質的にその男性が体質と環境を改善をしない限り、女性が選択する可能性は殆どないわけです。
では、出生率低下の最も大きな要因、非婚を解決する道はないのでしょうか。ありません。
夫婦という単位で出生率のアップを考える限り、その対策はすべて税金の無駄、政治家、役人の暇つぶしに終わるでしょう。
道徳・倫理の琴線に触れることを畏れ、今回の少子化対策法案の検討中に婚外児が話題になったのかどうか不明ですが、少子化のキーパーソンは未婚の女性である事実を直視すべきでしょう。男は一晩に5人の子供を孕ませられると豪語しますが、相手があってのことです。相手のいない男はティッシュや風俗に射精するだけですので、豪語どころの話ではありません。しかし、未婚の女性(一人っ子も相当数存在、パラサイトであり、実の両親と別居が難しい)の中には、結婚は出来ない、したくないが一人くらい子供が欲しいと考える女性の数は無視できないはずです。彼女等はその気になれば子供を産めるわけで、未婚男性が逆立ちしても出来ないワザを所有しているのです。「未婚の母キャンペーン」を打出すことで、数年で300万人くらいのベビー誕生は夢ではないと考えられます。当然そのためには、彼女等を支援する法整備とプログラムを用意しなければなりませんが、不確かな対策に現を抜かすよりは、効果的です。日本における婚外児は1%で文明国最低。英国、仏が30%、北欧は50%、ここにも注目すべき少子化対策のポイントが存在するのです。移民の受け入れをに否定的な民族主義者も面と向かって反対はできません。勿論、社会倫理に反すると叫ぶ人々もいるでしょう。しかし、少子化問題は切実だと、国民が理解した時には、あっさり認められる程度の倫理問題だと考えられます。
次に気にしてみたいのは、人口妊娠中絶の年間30数万人の取扱いです。この数字をそのまま、ベビー誕生に振り向けることは、暴論の暴論になってしまうので自粛しますが、注目しておいてもいい数字です。子供が国の宝と声高に主張する森元首相、全員養子にしてくださいませんか。養子という言葉が出てきて気付いたのですが、日本の養子の話、最近耳にしません。結婚時に夫が妻の家庭に入る話ではなく、子供を養子として迎える家庭の話です。つづく
ありそうでないもの!!ハシートップイン
03.09.29 少子化対策 蛮勇論4  前回までは、日本政府の少子化対策の無意味さと実効性があるかもしれない対策の一部を考えてみましたが、そろそろまとめにかかることにしましょう。
少子化対策のターゲットに都市型核家族夫婦を置いていること自体が的外れです。今回の対策が彼らに、より充実したライフスタイルを提供することは出来るでしょうが、少子化対策にはほとんどなっていません。
未婚の中年男性救済の「出会いの場」提供対策は地方議員の選挙活動の手助けをするようなものであり、全くナンセンスなものです。
世論というものは、相当に差し迫らないと「慣習や常識」の類を捨てないものですので、現段階では、我が国の少子高齢化現象を「どうなるのだろう?」とは思っているでしょうが、自分たちの社会秩序に反する「意見」を受入れないし、口にしないものです。おそらく、対策策定従事者の多くも、世論の流れをウォッチしているのが現状なのでしょう。しかし、5年後10年後に、民意の流れが出来てからでは、対策が有効性を発揮するには相当な空白を生むことになります。
やはり、婚外児の法整備を議論する時期は来ていると思われます。生殖に関わりのないセックスがこれほど解放された現在、子供を産みたい未婚女性への無理解は道徳的にも倫理的にも不合理だと言えます。いとも容易く、年間30万人の中絶手術をする医師会が未婚女性の人工授精を認めないなどは、笑止の沙汰ではないでしょうか。勿論、妊娠は自分の裁量で実行するのもいいでしょう。未熟で自己中な夫との関係なしに、自分の子供をもうけたい未婚女性の数は相当数に達する。しかも、今後もそのような女性の数は増加すると思われます。
男女共同参画社会というコピーと少子化対策に潜在化しているジェンダー意識は矛盾しています。「強くなったのは女と靴下」は実は現在も激しく前進していることを、政治と行政は確認すべきです。キャリアウーマンとしてのライフスタイルを実行する「賢く強く美しい女性」の子供は国宝だと思いませんか。20世紀には悪名の代表とも言われた「優生学」も、21世紀に入ってからは生殖科学の発達と個人の選択権の関わりにおいて、今までとは異なった概念といわれる「新優生学」として台頭する傾向もみられます。
また、この「未婚母キャンペーン」では高齢化過程の熟年実父母の子育て貢献も見逃せません。前述の地方都市のラクラク年金生活熟年とその若夫婦家庭への「出産子育て対策」に力点をおくことは、大いに少子高齢化社会に影響をあたえるでしょう。
都市型核家族への少子化対策はあくまで社会福祉の次元と理解すべきす。結果的に大家族ではありませんが、中家族程度の「我が国家族制度モデル」が実現する可能性も秘めています。飽食で育った世代にとって、独立はそれほど魅力的なライフスタイルではなくなっていることに注目しておいてください。親元だからといって、現在はそれほど不自由であったり、拘束的ではなくなっているのです。自分の親からの精神的、金銭的庇護はパラサイトな人々の増加に拍車をかけていくでしょう。このパラサイトの増加は婚外児の出現と法整備の必要性を生みだすに違いありません。また、パラサイト的な状況で親と同居する息子夫婦、娘夫婦という今までの概念にはない、家族形成が有力な近未来の世代に見られる可能性も出てきたとも言えます。現在20代10代の若者には「親とは鬱陶しいもの」から「何でも言う事を聞いてくれるコンビニな存在」に変貌しつつあるわけで、同居の状況は今までと様変わりしていることを忘れてはならないのです。
「親同居若夫婦」への手厚い支援は、彼らに贅沢と慢心を与えるでしょうが、無自覚に子供を多く産む環境を与えることにもなります。無自覚親からでも子供は産まれます、そしてその養育の半分はジジババが担うことになるのです。
このような選別型少子化対策は「差別」のそしりを受けるでしょうが、このような法案策定のために、賢い役人を抱えているようなもの、彼らはこの辺の「悪知恵」には異常に長けています、任せようではありませんか。
また、子供のいない富裕層の老夫婦と養子の関係は、ドライな契約関係と時間を共有する人間関係の融合において、高齢介護と経済基盤との取引が新たな家族を生みだすことも考えられます。このケースにおいて、海外からの養子縁組を積極的に考慮しても問題は少ないでしょう。養子縁組を夫婦が真剣に取組むのですから、不良外人などと呼ばれる移民の受入れとはおのずと違う結果が生まれるでしょう。
*婚外児を受入れる世論構成と法整備。(夫婦単位での少子対策からの脱却)
*2世代同居家族中心の少子化対策(都市型核家族は支援しても子供を2人以上産む可能性は少ない)
*富裕層夫婦の高齢化対策と養子縁組
以上がBOSSの蛮勇少子対策の戯言なのです。実はこの先もっと過激な対策が考えられるのですが、現時点ではあまりに不穏当では?ということで、控えることとなりました。おわり
楽天スーパーポイントプレゼント!
03.05.31 クリトリス・オーガズムの疑惑1 このようなサイト制作に関わったお陰で、知る必要もなかったSEXに関する情報を頭に詰め込むことになってしまった。(心置きなくSEXが出来なくなったぞ!)目からウロコと言いたいところだが、専門家の情報ですら、そのすべてが真実とは言い難い部分が多く見られる。どうもSEXに関する研究が科学的・社会的にまだまだ未成熟な状況から生れる現象のようだ。ある一つの情報ソースのコピーが多く、疑惑に充ちた情報が多数説としてデカイ顔で闊歩している。特に気になるのは明治における欧米文化の盲信が、女性の性の抑圧を生んだ経験の学習機能が機能していない点なのだ。愚かで、不勉強で、不正直な専門家が非常に多く、米国発のSEX情報を垂れ流している現状は相当に問題である。再び近代性文化の過ちを、我が愛しい日本女性に繰り返す危険すらある。(チト大袈裟かもしれない)
さて、今回は「女性のオーガズムはクリトリスが中心です」という、現在のSEX多数説に対する異論をまくし立ててみようではないか。
クリトリスオーガズム主流派の主張(決まりきった事実のように解説している)は、「女性の膣は非常に感度が鈍く、女性が快感のリーダーであるクリトリスへの刺激なしにオーガズムに至る事は困難である」と主張する。「女性は過去の性的抑圧を取り除き、自ら積極的に神聖で大切な自分の身体を知る必要がある。そのためには、自分の性器をよく観察して、気持のいい部分を会得し開発するべきである。その快感の多くがクリトリスに集中していることに気付くべきである」と声高に主張している。そして、クリトリスにおけるオーガズムを知ることで、容易にセックスにおけるオーガズムを経験出来るがごとき言説が蔓延している。クリトリスで得られるささやかなオーガズムレベルでセックスにおいてのオーガズムを語るのは時期尚早といいうか、僭越である。クリトリスにおける女性のオーガズムはオーガズムの前菜のようなものだと分かっていながら、識者連中はそれを女性の「オーガズム」だと、実しやかに語るのである。筆者の推測だが、これは明らかに虚偽表示である。どう虚偽がなされているか追々語るとして、先ずはクリトリスにおける快感について考えてみよう。セックスQ&Aなどの定番質問に「オナニーでは感じるのに、セックスでは感じない。むしろ苦痛をともなう」風の女性からの質問に「ペニスの膣への挿入とピストン運動で、女性がオーガズムに達するという幻想を持つ男性が未だに多いのには困ったものです。女性のオーガズムのトリガーはクリトリスなのに、男性は膣への挿入に必要以上にこだわってしまうものです。自分のどこが感じるか、どうしてもらいたいか、パートナーに素直に話せる二人の雰囲気をつくりましょう。そして、挿入前の充分なクリトリスを中心とした愛撫の時間を大切にしましょう」などと答え、その上「自分のどこが感じるかをしるためにも、出来ればマスターベーションで事前に自分の体を知っておくことも必要でしょう」などと追い討ちを掛けているのです。筆者としても、クリトリスが性的快感を敏感に感じる部分であることを否定するつもりはありません。しかし、女性のオーガズムがクリトリスで得られる(外的オーガズム)と言う回答にはその先の内的オーガズムに触れないという、消極的虚偽の疑惑が存在すると考えられます。
筆者の知る限り、女性のカウンセラー、産婦人科医の回答にその傾向が多く見られるところに注目してみたわけです。好意的に解釈すると、このような傾向は回答しているご本人も気付かない、米国におけるウーマンリブ旋風の中でつくられた「セックスを女性の手に取り戻す」意識改革の中から生まれた「セルフ・プレジャー信仰」の置き土産的言説が亡霊のように生存している疑いがあるわけです。「男が居なくてもオーガズムは得られる」なかなか元気な考えで感動ものですが、クリトリスの性的快感は「きもちいい」のレベルが限界と考えるのが妥当です。マスターベーションの熟練者になれば、内的オーガズムレベルへの昇華も可能でしょうが、一般的にはクリトリスにおける快感は「きもちいい」ものと考えるべきでしょう。しかし、その快感レベルでも充分満足出来、深い眠りにつけるなど、効果を否定するものではありません。ただ、執拗ですが女性のオーガズムをその程度の回答でお茶を濁すのは欺瞞であり、失礼でもあります。
それに考えてみて下さい、発生学的にクリトリスと亀頭が同じものだという事実から考えてみると、ペニス同様に勃起したクリトリスを刺激して快感を得ようということは、同一の機能であるにも関わらず、ペニスの唯一のオーガズムである射精はクリトリスにおいては望めないわけですから、感覚的にペニスの勃起と射精直前の性的快感レベルとドッコイの世界が展開していると考えられます。早熟の男性ならご存知でしょうが、まだ精液が製造されない頃のマスターベーションを思い出せば、ある程度の実感が分かるかと思います。射精に似た快感は得られますが、現実に空振りですから、本来のオーガズムの充実感は得られません。感じた後でペニスに触れことは「くすぐったい」だけで、苦痛でさえあります。この状況は女性がクリトリスだけで性的快感を得た場合も同様の感覚が残ります。
多少哲学的な解釈かもしれませんが、女性には男性の射精が出来ないが性的快感が得られるオーガズム・トリガーと女性独自の内的オーガズム・トリガー(膣口、Gスポット、膣壁、ボルチオなど)そして、身体全体の快感スポットと3っのオーガズム・トリガーを持合わせた身体であることを、もっと誠実に伝えるべきである。
では、何故真実を隠すのか。ひとつには前述のウーマンリブ幻想からの言説や一部の科学的証明を鵜呑みにしている無知からと考えられる。時には差し障りのない主流の回答をすることで危険を回避しようとしているのかもしれない。
あるいは、その回答者自身、実はその程度の快感をオーガズムと心から感じているのかもしれない。
あるいはその逆に、あれほどまでに絶叫してしまうオーガズムまで回答するのは、自分の性生活を覗かれているようで耐えられないのか。
場合によると、外的オーガズム(クリトリスの快感)は未熟な女性でも「いい気持」になれる部分であり、70%の女性が感じられる性的快感スポット、この部分を強調しておくことで、70%の女性が「私はオーガズムを知っている」と自信をつけさせる親心かもしれない。
兎角、SEXに対する回答、解説には微妙なプライベートな問題なども関係してくるので、ストレートにその全てを信じるのは考えものであり、最後には「人それぞれです」などと、結局「分かりません」「好きにして」といった回答が目立つのも仕方がないのかもしれない。
しかし、セックスに熟練した夫婦や愛人同士などにとって、クリトリスでのオーガズムを強調しすぎる現在の言説傾向には「ウンザリ」というひとびとが多い、時にはせせら笑う輩まで存在するのです。つづく
ベルーナ
03.06.21 クリトリス・オーガズムの疑惑2 筆者はクリトリスによるオーガズムを嫌悪しているわけでもないし、否定もしていない。1948年からの一連のキンゼー報告と1954年のマスターズ&ジョンソン夫妻による4段階オーガズム研究報告によって、クリトリスがオーガズムの中心に位置する市民権を得た。この二つの研究報告が性科学という学問領域を提供した功績は大きい。50年代の性の解放運動やウーマンリブ旋風を巻き起こす起点になったことも評価に値する。しかし、その後の女性のオーガズムに関する研究に大きな成果業績は見られない。このような現象はいまだに「性」はプライベートな領域という社会的土壌が生きつづけおり、研究者に対する報償が少ないことを窺わせる。最近話題になった幾つかの「SEXハウツー本」も50年前のこれらの研究に依存した状況から脱していない。救いはセックスを精神的に捉え、身体全体の問題として捉えようとする傾向くらいのものである。ただし、西欧的身体論、キリスト教精神論が中心であることは、いうまでもない。考えてみると、400万年と云われる人類の歴史の中で生殖・性交に関わる快感の論理的、科学的研究は、100年にも満たない。科学のの進歩がその時間を短縮出来るとしても、オーガズムのメカニズムの全てを指示すことは困難だと言ってもいいだろう。また、心理的、精神的、肉体的な性的刺激を受けて反応する「性反応」は自律神経によってひき起こされる。つまり、人間の意識外で起きる肉体的現象であり、それらは大脳の支配下にあるわけで、大脳生理学分野での全ての人間の神経研究が欠かせない「課題」なのである。心理的、精神的刺激に注目すれば、歴史学、社会学、心理学などからの研究も総合されるべき「課題」なのである。執拗に云うならば、宗教学、政治学、哲学までが含まれてくる。このように考えると、偉大なM&J夫妻の調査研究なども、糸口を提供したと受止めることも出来る。
あの偉大な心理学者フロイト博士の「クリトリスオーガズムは幼児性の現われであり、性交経験と成熟によって女性はヴァギナオーガズム(本当のオーガズム)を得ることができる」という疑似科学オーガズム説はキンゼー、M&J夫妻により、完膚なきまでに打ちのめされた。しかし、本当に彼の推論は間違いなのか、改めて検証する必要はないのだろうか。フロイトの全体的とらえ方に問題はあったろうが、全否定してしまえるほど、現在の性科学が正解である保証はなにもない。フロイトの推論はオーガズムを激しく感じる、何人かの女性の姿を目の当たりにした経験推論であったろうし、生々しい極限状態の女性のオーガズムを見てきた筆者としても、クリトリスでのオーガズム中心説に疑惑を感じるのである。どうも、現在主流となっているクリトリス・オーガズム説は「性的興奮」「性的快感」のレベルを「オーガズム」と呼び違いしているのではないかという疑問、疑念、疑惑なのである。ドーランドの医学大辞典によると「オーガズム」とは「快感の極点、性的興奮の頂点または極点」と表現されている。どうも筆者が考えている女性のオーガズムと現在解説されているオーガズムは別物なのかもしれない。現在主流になっているクリトリス説は、性的抑圧からの解放、男女のマスターベーションの悪玉説を覆す目的があった時代背景や21世紀になっても今なお、セックスがプラーベート領域の問題(本当のオーガズムまで教えられない)であると感じている人々が多いことも考慮した上での解説が求められる。
M&J夫妻は1950年のグレーフェンベルグ医師の膣内のオーガズムスポット・Gスポットの存在を頭から否定している。女性のオーガズムはクリトリスに依存していると断言しているが、80年にはM&J夫妻の主張は否定され、Gスポットの存在が確認され、個人差はあるがGスポットにおけるオーガズムはクリトリス以上の快感を得ることもある。子宮・ボルチオにおけるオーガズムも極点に近いものだと、主張する研究者も存在する。これらの主張がセックス専門領域ではない分野の学者の意見であったり、SEX業界従事者の主張であったりするために無視され続けている可能性は大いにある。しかし、彼らは妄想や想像だけでこれらのオーガズムを主張しているわけではないと思われる。解剖生理学によると、人間の身体には独立の「性感」は存在しないし、その刺激受容体も独立して存在しない。つまり、からだのあらゆる部分がオーガズムをひき起こす受容体となり得る状態とも受止めることが出来るのだ。これ以上このコラムに固執すると妖怪「クリトリ生首」に魘されそうなので退散するが、クリトリスの存在すら知らなかった100年前からの400万年もの間、女性が男性の独り善がりの「ピストン運動」の犠牲になり、「ちっとも好くない」人生を送り、性的抑圧の無い時代にも、嫌々セックスをさせられていたという感じの言説には「或る思惑」(新進気鋭にして急進的フェミニズム)の存在も考慮して、現在の欧米中心の「性の常識情報」に我々は対応していく必要があるような気がする。セックスの世界までアメリカ・ナンバーワンは勘弁なのである。身体を部分的に捉える西欧文化と、身体を全体的に捕らえる東洋文化の温度差も無視できない。
重要なことは、現在の女性のオーガズム情報が、あまりにもクリトリス中心説に傾き過ぎている傾向に注意すべきである。精神的、心理的性的興奮状況下においては、手を握るだけでもオーガズムに達する準備が出来、膣へのペニスの挿入だけでも、充分オーガズムを感じる女性がいるという、情報提供を蔑ろにしていけない。今後はクリトリス以外の部分でのオーガズム研究報告が各学問分野でなされることを期待しよう。ただし、その研究が学者にとって魅力的かどうかとなると、甚だ疑問でもある。
蛇足だが、欧米人、黒人系女性の性器における、クリトリスと膣口の距離に重大な問題が隠れているような気がする。モンゴロイド系女性性器は、クリトリスと膣口が比較的近接しているため、毛嫌いされている独善的ペニスの挿入だけでも、ヴァギナとクリトリスを同時に刺激出来る条件を備えているという”ひらめき”を一言つけ加えておこう。筆者の「宿題」にもしておこうと思うのです。おわり
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03.01.15 処女文化論1 文化には人々の間に生きつづけている思い・習慣・観念・言説などが現に存在する必要性がある。女性学やフェミニズム研究、あるいは女性誌において、女性の処女の重要性、貞節、純潔などは明治以降の西洋文明の押しつけであり、何の歴史的、医学的根拠は存在しないという言説・解説・メッセージが氾濫している。最近の調査によると、17歳前後の女性の5割が性交経験者であるという事実は、これらの活動が功を奏した結果も含まれるだろうが、原因のすべてでもなさそうだ。男女のマスターベーション有害説は有益説に大きく変貌し、多くの男女が世相に守られ、心置きなく自慰行為に耽った結果、女性が一層の快感が得られるのかもしれないセックスに興味・好奇心を抱いたと想像することも出来る。経験者だという友人からのセックス情報が彼女の妄想と競争心に拍車をかけていると見ることも出来る。同年代の男性の性交経験率が38%程度に対して50%は注目すべき数字でもある。推論になってしまうが、@セックスの相手方を女性のほうが求めやすいA若い女性がセックスの対象にする男性の年代層は幅が広いB男性には援助交際のような流行が基本的に存在しないC女性のほうが具体的仲間内の競争心が強いD男性は自慰・射精でオーガズムを完結出来るため、それ以上の行為に走らない、走れない傾向があるE男性がセックスを経験するために、何らかの支出が伴うが女性の支出は殆どない、逆に収入さえありうるF若い女性がセックスの対象とすべき理想のタイプが重複、少ないセックス対象者に具体的にも重複経験していることが多い。異論もあるだろうが、それらの要因などで若年女性の性交経験が同年代の男性を上回るのは当然とも思える。
このような若年女性の性交経験は増加するだろうし、一層の若年化が予測される。いまや、処女崇拝も純潔も存在しない世の中になった雰囲気だが、不思議なことに大学生が主流となる2チャンネルなどの掲示板を観察するかぎり、処女願望は若い男性には相当根強く残っている。この現象を単純に「だから男は遅れている」と叱咤するのは簡単だが、童貞のまま結婚に突入する男性が意外と多い状況とその童貞と結婚する世代の女性たちが概ねベテランという関係はバランス的に問題を包含している。「いいじゃない、妻が夫をリードするセックスこそ理想じゃないの」とも言える。しかし、セックスカウンセラーのスタッフの話によると、一時期話題になった成田離婚には3割程度、童貞君が新妻の奔放な姿態に驚愕、勝手に童貞だっただけにも関わらず、純潔を持ち出し、離婚を迫るという馬鹿げた話がある。一見、女性の地位向上の現象のように見えるが、女性にとって性の先行はその地位に有利に作用するのだろうか、判断は難しい。つづく
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03.02.10 処女文化論2 処女?そもそもどのような意味があるのだろうか。広辞苑の力を借りると『「家に処る(居る)女」「未婚の女」「男性に接していない女」「きむすめ」』ということになる。接頭語的には処女峰、処女航海、処女出版、処女作、処女地などに続いて漸く「処女膜」が登場する。処女膜については後に取上げるとして、まずは処女文化の正体を明らかにする必要があるようだ。乱暴な仮説だが処女文化とは結局のところ、純潔であること・貞淑であることが女に求められたかどうかの文化なのだと置換えてみよう。それならば、処女、純潔、貞淑、貞操などのキーワードで歴史をひっくり返して見るのが手っ取り早い。明らかになったことは、このあまり評判の良くない文化は日本の歴史の中で明治大正昭和の時代にだけ、燦然と輝き異彩を放っている。つまり、わが日本の歴史の中ではほんの100年間の悪しき文化に過ぎないことが判る。つまり明治維新で遅れた文化を取り戻そうとイナカ者集団・岩倉何某の猿真似だったわけです。ついでに純潔思想と宗教が切り離せないために、キリスト教を中心に出来なかった明治政府は神教を持ち上げたと解釈できる。現在社会学の1学問領域になっている、女性学やジェンダー論、フェミニズム論、セクシャリティの研究領域がこの100年の考察に集中していることに、ふと疑問さえ憶えるわけです。たった100年(それ以上生きる人もいる)の中に文化が存在するのだろうか。それはある意味流行の一種なのではないか。それが証拠に流行は廃れ、元来の日本人おおらか性文化が復活したではないか。否、その悪しき文化は行政や社会通念の中に厳然と生きている。その証拠にそれらの社会認識・制度・潜在意識などを変えるべく、様々な立法が制定され、フェミニズムの運動が活発なのだ。世界的に見ると、処女割礼など許しがたい慣習がまかり通っているではないか。なるほどごもっとも、しかしここ10年の立法・行政の動きは世界規模での”女性と子供の権利”を何とかしようという動きの中から生まれた問題であって、日本に特化した動きではない。まして、女の処女性・純潔を云々するような馬鹿げた不利益は表向き存在しない。しかし、男の中に存在する処女願望がなくなったわけではない。現在の処女願望・崇拝的意識は男の中で生きつづけているようだが、どうもこの意識は現実世界のものではないような感じになっている。よく言えばロマン、悪く言えば妄想の世界で脈々と生きている意識ともいえる。結論ではないが、現在の日本で処女・純潔でないことで具体的不利益は殆どないといえるだろう。成田離婚は例外であり、非処女を理由に起す離婚訴訟は馬鹿げているというのが社会通念だ。しかし、男の個人的感情として、自分のパートナーが処女であった場合、パートナーへの様々な感情(愛情)に有利に働く可能性は大いにある。処女文化イコール純潔・貞節の女性への要求という無謀な、しかし一見正しいような仮説は時間の無駄のようだった。もっと俯瞰的に処女へのアプローチが求まれれている。処女が何故崇拝されたのか、歴史を遡ることを要求されてしまったようだ。
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03.02.20 処女文化論3 処女崇拝に遡る前段として、「処女は貴重か?」について考えてみたい。そのまた前段になってしまうが「童貞は貴重か?」という、くだらぬ面をとりあえず考えてみよう。。童貞とは、まだ異性と交接していないこと、または人、主に男性をさす(広辞苑)ということになる。童貞の証明は本人の申告または本人のライフスタイルによる状況証拠であり、科学的証明はマズ不可能だ。まして童貞を守ったことで「あなたは私の為に純潔を守ってくれたのね」と新妻から感激される文化も存在しない。童貞であることを隠す(あたかも経験者である顔をする)文化はあっても、童貞を自慢したり、崇拝する文化はない。実は25歳前後でも「童貞」の男が相当数存在するにもかかわらずだ。このように男の純潔(童貞)がここまで粗略な扱いを受けるのは何故か。その証明が不可能なため価値基準がなく文化たりえなかった。しかし仮に、交接経験によりペニスの色が肌色から黒に変色するとすると、そこには「童貞」に何らかの価値が見出されるかもしれない。しかし、そのような変化(あり得ない)があったとしても、その肌色のペニスに「処女」同様の崇拝文化を生み出したということは到底容認できない。一部愛好者の垂涎の的程度の価値に過ぎないだろう。それに比べると「処女」は「処女膜」の欠損状況により、科学的に証明が可能といえる。
処女の文化的価値は「忌まわしき純潔強要時代」以外にも存在した。そこには「強要・強制」とは無関係の処女への崇拝・尊重・揶揄の文化が存在した。ここにこそ、この長たらしいコラムの着眼が潜んでいる。童貞の神話は多分世界中に何処を探してもないだろうが、「処女」の神話は至るところに転がっている。このような処女文化は「種の保存」が、いかに人間にとって重要なことであったかの証明ともいえる。「処女は貴重か」は言葉を変えると「これから妊娠してくれる大切な雌予備軍は貴重だ」ということなのではないか。男は童貞であろうがなかろうが精子を撒き散らすだけの扱いしか古今東西受けることは出来ないのだ。
前出の「処女膜」の存在が知られたのは我が国では江戸時代であり、それも医学者が知っているレベルであり、決して市民権を得た認識ではなく、処女・生娘はそのライフスタイルで認知されていたと思われる。女にとって気の毒な「性の近代化」によって、処女膜の存在が市民権を得てしまい、科学的にも「処女」「非処女」の区別が「処女膜の有無」の確認で容易だと世間に流布された点にあるだろう。流布というと、デマを流したような印象があるが「処女には処女膜がある」という事実は概ね正解である。しかし、ここ20年にわたって産婦人科医などが中心となって、「処女膜は交接以外でも破れる」との知識啓蒙に意図的と思えるほど力説しているのは、何を意味するのだろうか?
この点に疑問を持った以上、処女膜についても考える必要が出てきた。
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03.03.21 処女文化論4 処女の証明としての「処女膜」へのこだわりは、最近ではなくなった観もある。しかし、いまだに初体験、処女膜などの言葉が至るところに氾濫している現実をみると、建前上こだわらない風を装うマナーが確立されたと考えることが出来る。しかし、男も女もホンネでは相当に初体験に対して過剰な意識をもっている。初めての交接で処女膜が破れ、女は非処女になるという言説は曖昧でありながら、伝統的意識の中に埋め込まれている。これは広い意味で文化の一種である。初体験と処女膜喪失が一対の言葉になっている以上、この文化論で処女膜など些細なことだと、触れずに済ますことは出来ない。ただし、この「処女膜」というものは、16世紀になって初めて医学的に存在が認められたシロモノ、処女崇拝信仰など処女文化が紀元前から存在したことを考えると、やはり些細な問題なのである。日本では杉田玄白の「解体新書」で初めて登場するに過ぎない。しかし、発見された時から「初体験&処女膜喪失」は一対の観念(文化)となる必然性はあったのだろう。問題はこの一対の曖昧な言葉が多くの疑問と問題点を抱えている点だろう。
そもそも処女膜とはなに?から始めなければならない。処女膜は膣の入口の僅か奥にあり、内側を囲むようにリング状についている赤みのあるピンク色をした粘膜の襞(重層扁平上皮・唇の内側に似ている)ということが出来る。見た目は(よほど熱心に観察しないと分かりにくい)ポックリと膨らんだ粘膜の輪のように見える。中央には幅1〜1.5センチ、厚さ2〜2.5ミリの孔が空いていて、経血を排出する。この孔は膣の成熟に従い大きくなり、厚味も薄くなると考えられている。証明ではないが25歳以上の初体験では痛み、出血が極めて少ないデータが存在する。日本人の多くは環状型で中央に孔があるが、その他にも様々な形状と孔の状態がある。勃起状のペニスなどの挿入で処女膜は欠損するが一気に破れてなくなるものではなく、一部が欠落すると考えられる。月数回程度の交接ではすべてがなくなることは稀で、非処女の処女膜が当分の間残っている。出産によりあらかた喪失するという説もある。多くの情報に乗馬、サイクリング、タンポンの使用などで処女膜が欠落するという「なぐさめ?」「男女の平和?」「女性の味方?」の立場での優しいウンチクがあるが「医は仁術」の類と考えられる。例外(寛容性処女膜)は勿論あるが、存在している場所とかなり強靭な組織であることを考えると、その程度で破れるとは考えにくいのです。この辺にも性の常識のあやうさを見ることができます。処女膜つづく
大豆のいいとこ、ギュッと詰めました!
03.04.02 処女文化論5 初体験などで処女膜が欠損(喪失)する際の痛みと出血が少女漫画や官能小説では象徴的な扱いを受けている。「あまりの痛みと夥しい出血」は一種市民権(文化)を得ている処女喪失の情景なのである。「痛いどころか心地よさを覚え、出血もまったくなかった」ではストーリーが展開しない。たしかに、処女喪失にドラマティックな区切がない点で不満は残るが現実はそれ程ドラマティックなものではない。
信頼できる統計によると、強い痛みを感じる30%、軽い痛み40%、無痛12%となっている。出血についても統計があるが、僅かな出血50%、無出血30%、大量の出血1%などとなっている。この統計を年代別に調べてみると、若年での初体験で痛みが強く、出血が多いことが確認されている。また、初体験のパートナーの熟練度にも影響されるのでこれ以上の考察は無意味だが、ペニスの挿入を急ぐあまり、パートナーの受入れ態勢を無視、無知で行われている状況などを考慮に入れると、処女膜を欠損(喪失)する際の痛みは充分なうるおいと冷静なペニスの挿入で殆どカバー出来る問題と考えられる。若干の出血は毛細血管が切れる以上、唇の裏を噛んだ程度の出血はありうる。なかには冗談でしょうとの異論を唱える方もいらっしゃるでしょうが、医学的にはそんな程度のものです。異論の方々もそのシチュエーションを思い起こされると、パートナーも初体験とか、異常に緊張していたとか、観念的に痛いと思いつづけていたとか、挿入後パートナーがピストン運動を相当続けた等々原因があるはずです。
ところで、動物はすべて処女膜はあるのだろうかという疑問ですが、少なくとも哺乳動物には処女膜はあるようです。すべての観察がなされたわけではありませんが、牛、馬、山羊、豚、猿などの処女膜は確認されています。或る有名セックスカウンセラー女史は一部の猿にしか存在しないと書いておりますが、単純なミスでしょう。俗説にモグラと人間にしかないなどとも語られていますが間違いです、動物学的には処女膜の研究に精を出す学者がいない、研究しても意味がないということなのでしょう。私が横路に逸れてしまったわけですが区切として、処女膜の存在理由について触れることで処女膜から脱出しようと思います。
@勃起力の弱い、貧弱なペニスを拒絶するため
Aやっとの思い出処女膜を潜り抜け射精した貴重な精液を逆流させないためのダム
B排尿時の尿が膣内に流入させないため
C陰唇が未発達な少女の膣内に異物がゴミが入らないようにするため
Dあらゆる体位でセックスをする時、どのような挿入角度でも膣に隙間が出来ないようにするため
E若年のセックスは子宮頚部びらんを生じ、癌などの疾病を誘発するため、若年時には処女膜でペニスの侵入を防いでいる
F胎児が男になるために存在している膣内の粘膜に過ぎず、膣の穴が塞がれペニスに変化するだけのもの
どの説も納得しがたいものです。真剣に研究すると解明されるのでしょうが、解明したとして賞が貰えるものでもなし、当分存在理由は闇の中でしょう。学者の研究対象にもならない処女膜、この辺でオシマイ
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03.04.15 処女文化論6 処女文化の原点と思われる処女崇拝が何故発生したのかという問題に漸くたどり着いた。しかし、残念なことに神話の世界や知りうる古代の歴史を追い掛け回しても、「処女崇拝」(未交接)の観念と一致する史実を見ることは出来ない。なぜなら、「現代の処女」イコール未交接なのだが、鎌倉時代、江戸時代の上級武家社会で台頭した「処女」「乙女」「生娘」などの言葉も、史実を見る限り相当に怪しい処女であり、「現代の処女」(初体験と処女喪失)とは意味が異なっていたようだ。そもそも、処女膜の存在を知らないのだから当然である。まして、庶民の間にあっては「夜這い」などの風習が慣習的にあり、おおらかで適当な性風俗が存在したことは史実である。広辞苑の処女が「処に居る女」というように、ライフスタイルが親元に拠点がある女は概ね「処女」、アバズレでも半年も親元で静かに暮らせば、「処女」の扱いという文献もあるくらいで、これはもう、形式の世界と言っても過言ではない。労働集約社会にあっては多くの人間が必要なわけで、未婚の娘が子供を身篭ったくらいで、大騒ぎする必然性はなかったと考えることも出来る。織田信長の時代に来日した宣教師ルイス・フロイスの記述によると、日本の娘の自由度は驚くばかりで、町をぶらぶら歩き、森に入り、川に入り、気ままに旅にまで出かける。(著者解釈:言外に純潔が保たれるとは思えない、イエズス会の宣教師の頭が混乱したのも肯ける)
どうも我々が考えている処女(明治・近代以降の「処女」)と江戸時代以前の処女の間には「処女膜の有無」という、科学的?存在のお陰で文化的に相当異なった概念がひとつの言葉に二つ存在することを知ってしまったことになる。これで時系列に我が国の「処女文化」を追求することは無意味だと言うことが判明してしまった。今さら判るとは頓馬な話しだが、長々とした時間におつき合いいただいた都合上、何とか「処女文化論」を締め括る責務だけが残された。
これまで紆余曲折を経て判ったことは、近代以降の処女(近代処女)と江戸以前の処女(江戸処女)は似て非なるものということになる。それでは「処女文化論」も面倒だが2分割でその文化を検証する必要があるようだ。前述の「処女は貴重か?」をキーワードに江戸処女と近代処女について考えるてみよう。
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03.04.23 処女文化論7 江戸時代以前の「江戸処女」について考えてみよう。実際は古代から江戸までをまとめてドーンはいささか乱暴なことを承知で話しを進めてしまおう。そもそもヨーロッパの宗教上の神はユダヤ教、キリスト教、イスラム教など男神なのだ。それに対して日本は多神教であり、女の神も相当数存在している。例えば神話の世界ではイザナミ、アマテラス、卑弥呼、ナキサワメ、コノハナサクヤヒメなどの女神が登場、仏教の世界にも弁天様、観音様、愛染明王、鬼子母神、吉祥天女、弁財天などの女の神仏が登場している。男神に比べ数において遅れをとるものの、神話の時代や仏教の世界において、女性の存在が社会的にある程度の地位を獲得していたことを証明していると言える。女性の地位の次元で見ると、古代から飛鳥、奈良時代にかけて、巫女王卑弥呼を含め推古・持統・元明・称徳などの女帝の出現は権力の実態は別にしても、女性の地位の確かさを示している。古事記以降の文献において、当時の女性が非処女(交接女)であることで大きな不利益を受けたという史実は見当たらない。古代から平安・奈良に掛けては妻問婚(夫が妻の家に通う)が主流であったし柳田国男の「明治大正史」などによると、庶民の間では明治初期まで、この婿入り婚は厳然と存在したとしている。この夫婦の形態は男女双方に相当の自由が存在し、2,3軒掛け持ちする男、2、3人連れこむ女は例外ではなかったようだ。何と言っても生活の中で同一の時間を共有するのは1,2時間のこと、誰が考えてもフリーセックスに近い感覚が日本人にあったと考えても何の不思議もない。つまり、処女膜などという厄介な存在を知らなかった江戸以前の日本人はセックスを大いに楽しんでいたわけで、交接済みの女であるかどうかが男女の性的関係において、殆ど重要視されていなかったと考えることが出来る。婿入り婚の変形が「夜這い」という風習を育て、婚姻以外の男女間に流行したのは肯ける。科学的にも妻問婚は正鵠を得ており、時間の共有が少ない男女の性行為の方が生殖の確立を上昇させ、多くの子孫を残す確立を高めているのだ。(生殖学によると、不倫のセックスの方が妊娠の確立が高くなる、何故か元気な精子が多く射精される)昔の日本人はホント偉かったのです。江戸時代まで続いた男女混浴も日本人の性へのおおらかさを証明しているといえるのです。浮世絵における性描写にも見事に世相を反映する図構成を垣間見るわけです。江戸以前の日本人の8,9割が農民だったことを考えると、平均寿命は短く、農業の労働集約度などから推理しても、子供は宝だったに違いありません。その子供を産むであろう、女は貴重であり、その女が処女か非処女などと下らぬ詮索をする土壌が存在しなかった訳です。子供が産めない女には苦痛な時代だったでしょうが、何人かの男と婚姻前に交接したかどうか、まったく問題になるような時代背景は見あたらないということが出来ます。さらに庶民のレベルで考えを進めると、昔も今も夫婦のどちらかが気性が激しいもので、各夫婦間のプライベートな権力闘争で優劣が決定していたとも考えられるわけです。
勿論反論も考えられます。大化の改新における「男女の法」による父系社会の御触れ、鎌倉時代の武家社会の台頭と男子相続の確立、江戸時代の貝原益軒「女人三従」そしてそれを継承した「女大学」をどう説明するつもりだ。確かにそれらは史実ですが日本民族全体から見ると限られた社会階層に影響を与えた史実であり、それらのような規範をわざわざ示さないと示しのつかない現実が、それらの階層にも蔓延していたということではないのだろうか。江戸時代には「未通女」「生娘」という「処女」を指し示す言葉が見られるが、近代における「処女」としての意味合いはなかった。逆に政略結婚などにおいては、人の古女房を娶ることなど日常茶飯事で、不倫、離婚、再婚も習慣的に行われており、日本人のセックスライフは想像以上におおらか(乱れた)ものだった。当時は血液検査もない、ましたDNAも関係ない、「あんたの子に決まってんでしょう」という女の一言が雌雄を決したと考えられる。江戸川柳の中には生娘をからかうものが見られるが、生娘でなかった女の悲喜劇が詠まれたものは筆者の知る限りないようだ。結局、江戸時代以前には所謂処女文化と銘打つほど「処女」へのこだわりが存在しなかったことを証明するという「徒労」に行き着いてしまった。
さて、明治以来の「近代処女」において処女(未交接女)は貴重であり尊重されるものという観念はヨーロッパ文明の直輸入を目指した明治政府の愚挙である。ヨーロッパ崇拝の明治政府高官らはヨーロッパの侵略の歴史、それに伴う女の略奪、戦利品として陵辱を報酬の一部とした悪しき伝統の学習で得た、背に腹は替えられぬ偽りの教え「貞操純潔思想・性行為は不浄」の教えまでも鵜呑みにした官学の共同謀議で明治・大正・昭和にわたり市民権を得たといえる。しかし、この処女・純潔の貴重性、尊重は1989年明治民法に至っては女性への貞淑や従属を社会的・法的・医学的に強制するものに変貌した。これら女性を取巻く環境は第2次大戦終了まで続いた。1910年当時、この貞操純潔思想が女性解放を叫ぶ「青踏」を中心に与謝野晶子、平塚らいてうらの議論の対象となったが論壇の世界で起きた議論であり、庶民の知るところではなかった。戦後においても米国の性に対する観念が受け売りされたわけで、法的に男女の平等が認められたと言っても、市民の潜在意識に植えつけられた「貞操純潔」の意識は容易に消し去ることはできなかった。この意識は現在に至っても綿々と受け継がれている傾向は色濃く残されている。「・・・女の子の大切なものをあげるは・・・」などという歌詞の流行歌がヒットしたわけである。日本古来の2000年のセックスライフが消え去り、直輸入されてたった100年の「純潔貞操思想」が根強くひとびとに埋め込まれているのは本当に不思議である。しかし、性行為が生殖(産婦人科領域)と分離され、闇に閉じ込められた結果、公的な乃至は信頼しうる情報公開が遅れてしまった点は日本人の先祖返りを阻害し、おおらかな性を謳歌する権利を奪っているともいえる。また、明治以降の科学の発達は、フリーセックスへの里帰りを阻害している。超核家族や堅牢な家屋など社会的構造も阻害の原因になっており、先祖返りは、殆ど不可能なところまで、我々はたった100年で来てしまった感がある。
現在10,20台に見られる奔放なセックスライフは一見日本古来のおおらかな性文化への先祖返りのようにも見受けられるが、子供を欲しがらないセックス、妊娠中絶の認知、避妊の認知などの点で江戸時代以前の「おおらかセックス」とは「生殖と性行為の分離」の点でまったく異なったセックスライフが登場するに過ぎないかもしれない。明治以降に導入された「純潔貞操思想」から派生的に発達した「生殖と性行為の分離」は皮肉にも現代の日本人に都合よく取り入れられ市民権を得ていると言う事が出来る。そして、私的な問題と目を背けた「性行為」だけが、元気に独り立ち、世間を闊歩することになったといえる。「生殖」はいまや「性行為」に完全に遅れをとり、若年層の女性の中には、処女であることで自分に対して嫌悪感が生まれる現象までみることができる。こうしてみると、「日本の処女文化論」の試みは無残に失敗したという結論が導き出されたことになる。現在、若い男世代に残存している「処女願望」「処女崇拝」の文化も早晩焼失する運命なのではないのだろうか。生殖にも性行為にも、処女である必要性はまったくないのだ。残るとすれば新品を手にする単純な欲望の満足だが、これは女が男に望むこともできる欲望でもある。「処女の貴重性」と「童貞の貴重性」がここで見事に一致する。ただし、ここでいう「処女・童貞」はモノの概念で捉えられる問題でもあり、売買の対象になりやすい危険を伴ってもいる。誤解を恐れず言うならば、現在一般的になっている恋愛と身体を許す関係には「貞操・処女」がその女性から分離した「モノ」になってしまっているとも考えられる。「処女文化論」が「女性の地位論」のようになってしまったことを考えると、身勝手な解釈だが「女になる前の処女と女の地位論」だったのでしょうかね
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02.12.31 生殖とセックス われわれ人間は何故?神聖な子孫を残すための生殖行為の最中にに、”快感”を感じてしまうのだろう。科学的に生殖における快感は女性のオーガズムについては多少の意味があると言われているが男性のオーガズムが生殖にどのような役割を果たしているのか謎だらけである。想像だが進化の過程で発情期を失った人間が生殖行為で何一つご褒美がもらえないとなると、種の保存に重大な支障をきたす状況から、備わった感覚と考えられる。
現在の男と女の多くは愛し合い、求め合い、結局気持ちよくなるためのセックスに、人生の貴重な時間や金銭を消費し、そのセックスを満足なものにするために様々な努力している。
例外的かもしれないが、生殖とは無関係の同性愛というマイノリティなセクシャリティで相互のコミニケーションをとる人間関係や相互のコミニケーションを放棄、乃至は嫌い、マスターベーション(絶対妊娠しない)でセックスを自己完結する場合もある。
類人猿にも性器を利用したコミニケーション行動やマウンティングなどの行動が見られ、ボノボに至っては人間の雌(女性)の恋愛手管の原型と思われる行動さえ見られる。また、性周期も他の類人猿に比べはるかに長いスパンで性行為が頻繁に行われているが人間にはかなわない。人間に至っては発情という期間的問題は原則なくなっている。

正確には、動物における発情というものは生殖を行う本能と理解するかぎりにおいて、人間から発情(種の保存行動・本能)という生物学上の機能が喪失しているとも思える。
セクシャリティの歴史研究が社会学の1分野を構成する現在、人間のセックスと生殖は全く異なる目的の行為であるとも考えられる。ややっこしいのは、異なる目的の行動であるにもかかわらず、その行動が非常に似ている点なのだ。未来志向の考え方をすると、将来人間は生殖のための性交をしなくなると、推測する学者まで存在する。(多くの生殖技術の進歩、妊婦体型の忌避、妊娠の忌避、男女の産み分け、DNAの選択など)
セックスが性科学の範疇からセクシャリティという概念の台頭で、社会学、歴史学のカテゴリーで大いに発展していることも重視しなければならない。今後は人間のセックスを論ずるのは社会学者であり、バイオ・生命科学分野の問題であり、今までのような、産婦人科医の独壇場は過去の話となるだろう。
生殖は科学者・医学者、セックスは社会学者という棲み分けが認知されつつある状況となっている。
またセックスが社会学上、歴史学上研究できる学問の対象であるということは、セックスが文化であることを示している。

人間にあっては、生殖とセックス(セクシャリティ))は別途の概念と考えるとき、夫婦・家族という20世紀の人間社会の基本構造も何れ歴史に埋没する日が来ると考えるのも、理論的である。
21世紀中にその夫婦・家族という基本構造が消滅するとは考えにくいが、現在進行中の生殖の先進的技術やセックスレスなどの性現象、精子減少などの環境問題などが複合的に作用した時、人間は未知の生殖関係で種の保存を考え、新たな人間関係で社会の基本構造を生み出す方向に半歩踏み出していくのではないのだろうか。



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