(2)男女の性欲











何も考えずに勃起して射精したくなるのは古い脳(旧脳・視床下部など)。好きな女性のことを考えてとかビデオを見て勃起し射精したくなるのは新しい脳(大脳・人間が特に発達)乱暴な言い方だけど、子供を作る性欲(生殖)は旧脳的、コミュニケーションや快感のための性欲は大脳的だといえる。それに男女のホルモンを亢進抑制する神経ネットワークが絡んで人間の性欲は完成する。
男の性欲は性的快感を経験していなくても強く作用する(勃起とマスターベーションと射精の関係)
女の性欲は性的快感の経験度に左右されることが多く、性未経験者の性欲は漠然としたものである

副題:脳科学と性欲、ホルモンと性欲、心理学と性欲、性欲の性差、社会学における性欲

男の多くは12歳前後の頃、「ヴァギナ」「性器」「乳首」などという言葉を聞いたり、見たりするだけでズボンの中のペニスが勃起した記憶がある。そのような時、マスターベーションで、その欲情を静めることになる。ある時は「夢精」で知らないうちに射精してしまい、気持の悪い、バツの悪い思いをした記憶があるのが普通である。
多くの男にとって、自分の「性欲」を実感する瞬間はペニスの勃起である。そして、「勃起という性欲」は射精すると治まることを体得することになる。そのため、男の場合「性欲=勃起」という観念が身についてしまう傾向が顕著なのだ。そして、勃起は精液が溜まりすぎて起きる現象だと自覚してしまう。この精子製造のメカニズムと人間の「性欲」はリンクはしているが、同一ではない。
男はこの思い込みを持ったまま成長、大人になっても、ほとんど消すことはない。一部の性犯罪者に共通する認識で、自分の意志に関わらず起きる「性欲」は本能であり、自分の責任とは思えないなどという、言い訳にまで利用される「不確かな認識」ということがいえる。この認識は正解の一部だが、それが「性欲」についての全てではない。
それに対して、女の性欲は男のように明確な身体的現象を見せることが少ないので、以前は「女には性欲はない」などという言説が当然のようにまかり通っていたが、初潮以降では、クリトリス組織を含む外性器(陰唇、陰核など)・内性器(膣、子宮膣部など)の充血という現象が確認されている。女の身体的性欲現象が見た目では判りにくいことから、誤解が生じたということに過ぎない。現在では、男と同等にして異質(脳の性差はあります)の「性欲」があるという説が通説になっている。
人間の「性欲」は調べてみると驚くほど奥が深いことに感心させられる。実のところ、人間の男女の性欲についての科学的メカニズムの検証は未だ道半ばということが出来る。各学者・研究者の夫々の研究領域においての検証が主体であり、夫々の研究報告が、「性欲の各論」となって情報が分散、それを統合し体系付けることが必要になってくる。
「性欲」は大きく二つの観点から考える必要がある。ひとつは専ら生殖・種の保存を目的とした、本能(食欲・性欲・睡眠欲)としての「性欲」。そして、もうひとつが生殖と切り離された、人間のコミニケーションとしてのセックスにおける「性欲」ということになる。
この二つの性欲を完全に分離して説明することは困難だといえる。なぜなら、生物が本能として持っている「本能性欲」(造語)と人間がコミニケーションなどのセックスにおける「大脳性欲」(造語)は、我々の脳の中で複雑に関係連携し合っている「統合性欲」(造語)だからである。現在では性欲を本能とは言わず「性衝動」という言葉で表現するのが正しいようだが、ここでは「性欲」で押し通す。グロスマンによると、「性衝動」とは、「ホルモンと中枢神経」と「外的刺激の総和」だと定義している。しかし、ここではやはり庶民派研究者らしく「性欲」というものを解説してみようと思う。そのため、専門用語とは異なる語彙を駆使、読んだ後で、知ったかぶりで”ウンチク”を他人に披露しないようご注意申し上げる。

@脳科学と性欲
「本能性欲」とは脳の中で起きる「性・生殖に対する本能的欲求」のことである。この本能的欲求を司っているは、脳の中心部にある間脳という部分で、この間脳に幻の「性中枢」があるらしいと分かってきている。特にその中でも、大脳の内側にある視床と視床下部に「性中枢」が存在することが明らかになって来ている。この視床と視床下部は大脳と中脳の間に位置し、辺縁葉と呼ばれている。この辺縁葉には、視床・視床下部・脳梁・扁桃核・下垂体などが属していて、この辺縁葉の部分がおおむね「脳の旧皮質」と呼ばれる部分になっている。この「脳の旧皮質」は、ほとんど全ての生物が、生まれながらに持っている「脳みそ」ということが出来る。
この「旧皮質」の脳では、生物の基本的生理現象・本能といわれる、食欲・性欲・睡眠欲及び自律神経(内臓神経で不随意なもの)を司る。爬虫類の脳などはほとんど「旧皮質」だけで脳が出来上がっているようだ。しかし、それでも生きるための行為を司る司令センターとして機能し、爬虫類も人類同様に現在の地球で存続し、種の保存を実践しているわけである。
便宜的に使っている「本能性欲」、言い換えるならば「性中枢」は「脳みそ」の中心部にある「辺縁葉」にあり、原始的性欲を作り出していると言えるわけである。大脳・新皮質の発達が未熟な乳幼児の性行動や大脳の一部が崩壊した老人などの性行動は、例え人間であっても、その性欲求行動は、この「本能性欲」に属するものと考えられている。
また、旧皮質にある「性中枢」は人間以外の生物に見られる「性欲の周期性」にも深く関わっているらしく、いわゆる発情期という動物界の現象をつくり上げてもいる。

「大脳性欲」とは、上記「本能性欲」を司る視床下部などの辺縁葉をすっぽり包み込む形で発達した、新皮質・大脳が司る「性欲」のことである。哺乳動物⇒猿⇒類人猿⇒人類と進化するにしたがって、この「旧皮質」を被う形で、大脳・新皮質という「脳みそ」が発達していく。人間では類人猿の数倍に大脳が成長してしまう。大脳が生物の中で桁外れに大きくなったのが人間の脳の構造的特徴といえる。また、この大脳は生まれながらにして出来上がっているものではない点が非常にユニークで、その人間の発育状況に応じて成長していく脳皮質なのである。この新皮質といわれる部分に、その所有者の知性・教養・学習・感覚・視聴覚・記憶・創造・意志などなどの司令塔・中枢が存在している。
この新皮質と視床下部を中心とした旧皮質の辺縁葉の間で、体液やホルモンや神経繊維を媒介として、スパコンもかなわない正確さとスピードで緊密に連携がとられ、我々は生きている。
「大脳性欲」にとって「本能性欲」はソフトウェアーとハードウェアーの関係に似ている。多少無理はあるが、ほとんどの生物はハードウェアーに組み込まれた単純なプログラムだけで、あらゆる行動をしている。それに対して、高等な動物になるにしたがって、綿密なソフトウェアー(新皮質・大脳)が組み込まれると考えてもいいであろう。
つまり「本能性欲」は独立性が強いが、「大脳性欲」は独立性が乏しいということが言える。しかし、人間の大脳は肥大化し、外界からのあらゆる刺激に激しく反応する機能を所有してしまった。旧皮質がベースである本能をも抑制・亢進させるインベーダみたいなものとも言える。旧皮質の「性中枢」は「庇を貸して母屋を取られる」気分だが、どっこい、結構新皮質の大脳に影響力を持っている。だからこそ次の「統合性欲」の説明が必要になってしまう。

「統合性欲」(人間の性欲)とは上記の「本能性欲」(旧皮質性欲)と「大脳性欲」(新皮質性欲)の統合・総和によって出来上がったものである。(類人猿の一部にもあてはまる)
後天的に成長する人間に顕著な新皮質・大脳と多くの動物が生来的に持っている旧皮質・視床下部を中心とした辺縁葉との間で展開する、体液・ホルモン・神経繊維を媒介とするネットワークが人間の性欲の決め手となるのである。外界から受ける五感の刺激はすべて大脳を通じて、下垂体や性腺や自律神経に伝達され、内臓や性器に伝えられるわけである。
人間の性欲は大脳と視床下部辺縁系が互いに影響し合い、双方でコントロールをし合うという面白い関係にあるわけである。これらのコントロールは性欲の亢進だけでなく抑制もするところがミソなのだ。
つまり、オスの本能の為せるワザとして、好みのメスを見つけると、見境なく押し倒し「性欲」を満足させることが難しいのが人間の性欲のメカニズムなのである。大脳は成長に伴って、教養・倫理・道徳・宗教などの情報を大脳に詰め込み、動物的性欲を抑制することになる。中にはこの大脳に何らかの障害が起きたり、一部成長が未熟であったり、逆に老化などによって大脳と視床下部辺縁葉のコントロールが狂ってしまい、異常性欲を起すことがある。また、皮肉な現象として、大脳に道徳や倫理など精神活動を歪める形で形成する高度な脳活動故の人格障害も発生する。
何だ!不便になっただけかなどと嘆かないでもらいたいものだ。この大脳による複雑な性欲を人間が身につけたことで、「コミニケーション・セックス」という生殖を離れた複雑なセックス(オーガズム・セックス)を与えられたのだから、文句を言えた義理ではない。
生殖だけのセックスであれば、早漏は正解なのだ、膣内に射精さえすればいいのだから。現に類人猿以下の動物のセックスタイムなんて、”ちょちょいのちょい”である。30分も挿入していたら、間違いなく他の動物に食べられている。だからといって、早漏の男が進化が不足した人間だ等とは言っていない。


Aホルモンと性欲
ホルモンと性欲の関係も見逃せない。ホルモンは体内の内分泌線で作られ、血液によって特定の標的器官に運ばれる、微量で強烈な生理作用を持つ化学物質である。このホルモンの作用は「発育成長」「自立機能、衝動機能の調整」「内部環境の調整」の三つと云われる。標的器官はそれぞれ目的のホルモンを受入れる「受容器」があるらしいが不明な点も残されている。30種近いホルモンの中で、性欲に関係するホルモン、生殖・性徴・性機能・性衝動・性行動などに関わるホルモンを性ホルモンと呼ぶ。この性ホルモンを分泌しているのが、下垂体・性腺(卵巣・睾丸)・副腎皮質などである。これら内分泌腺から分泌されているのが、アンドロゲン、エストロゲン・プロゲストロン、ゴナドトロピンなどである。
「アンドロゲン・シャワー」聞いたことがある、このシャワーを胎児の時に浴びると「男」になる、そう、そのアンドロゲンが出てきましたが、ここではこれらのホルモンが人間の性欲にどのように影響しているかについて、あまり面白くはありませんが、解説しておくことにする。ここを飛ばすと、「外界の刺激と性欲」に行けなくなるのである。驚くほど簡単に説明するつもりなので、ガマン、我慢である。
動物では性行動などを惹き起す環境の変化が外界の刺激になる。この刺激が感覚系に伝わり神経情報として、動機づけ系の視床下部に伝達される。伝達された情報は行動を発現乃至は抑制するととになるのだが、視床下部、辺縁葉には神経ホルモン産生ニューロン(神経細胞)という、脳の下垂体や生殖腺の働きを制御するメカニズムが存在している。
脳の命令で生殖腺から分泌されたホルモンが、今度は逆に脳へフィードバックさせる。神経系では視床下部から運動系に命令が行き、性行動が発現されるが、そのとき同時にホルモンが脳を経て、運動系の性行動にも影響を与えている。
つまり、性欲と生殖行動は神経情報として発現すると同時に、ホルモン情報(液性情報)としても発現するということである。
*『ニューロンというのは、神経細胞が、情報伝達のために作り上げている機能ユニットで神経の単位である。神経細胞の本体である神経細胞体からは、木の枝のようにたくさんの樹状突起が出ている。まわりの神経細胞から情報を受け取る、受信専用のアンテナである。樹状突起はみんな短いけれど、それとは明らかに異なる長い線維が、神経細胞体から1本だけ延びている。これが神経突起(軸索)で、他のニューロンや筋肉などに情報を伝える出力ラインである。そして神経突起は、別のニユーロンとの間にシナプスという接点を持つ。ニューロンは、情報を電位の変化として伝える。それには興奮性と抑制性があり、電位変化が蓄積して、あるレベルを超えると、シナプスを飛び越えて伝わるのだ。かくも精巧なニューロンだが、成人の神経細胞は二度と分裂できない。老化とともに減る運命だ』
この少々判りにくい脳内のニューロンネットワークが実は男女の性差の重要な位置を占めている。
哺乳類のオスは脳内の視索前野部分にあるニューロン(神経受信ユニット)が男性ホルモン・アンドロゲンへの感受性を持っているため、アンドロゲンを受信すると、中脳や延髄の運動系神経に命令を送り、オスに生殖行動を発現させることになる。

メスのホルモン・ニューロン・ネットワークはオスに比べて相当複雑です。メスの場合、性行動の制御は旧皮質の視床下部腹内側核で行われる。脳に女性ホルモンのエストロゲンやプロゲステトロンが働くと、その感受性ニューロンが活動を始め、今まで支配されていた上位の脳から抑制を解放、中脳・脊髄周辺の感覚系・運動系のニューロンが敏感になり、オスとの接近で容易に性行動を起すというメカニズムになっている。
実はメスの場合これだけでは済まない。ご存知の性周期がメスの性欲・性行動に関わってくるのだ。まず性中枢・視床下部からGnRHという「性腺刺激ホルモン放出ホルモン」が分泌、下垂体から性腺刺激ホルモンが分泌される。このホルモンが体液を通じて卵巣に達し、卵巣に排卵などを促しことになる。
逆に、卵巣から分泌された卵胞ホルモンや黄体ホルモンは同様に体液を通じて、下垂体や視床下部に情報をフィードバックするという、循環機能でメスの性機能を調整しているのである。参ったか?

おおむね人間以外の動物はホルモンの支配下のみで、専ら性欲や性行動を起し、生殖・種の保存を行っている。おおむね問題があるのは人間の性欲だけである。
ラットなどの実験によれば、卵巣を除去したメスはオスを絶対受入れない。しかし、女性ホルモンであるエストロゲンを投与すると、再び激しく性行動を起す。この段階で動物のメスの性行動がホルモンに絶対的に支配されていることが分かる。
ところがである、人間の女には、この科学的真実があてはまらないのである。何故かというと、人間の女の場合、卵巣を全摘出した場合、月経は当然なくなるが、性欲や性行動はほとんどの場合影響を受けないのである。
つまり、人間の性欲・性行動は脳の「性中枢」やホルモンの影響を受けてはいるが絶対的ではないということになる。思い出したが、「男女の雑学」の中に『去勢された男子のペニスは勃起しない、しかし、被去勢者が性経験者の場合は勃起する』という情報があったが、これも人間の性欲・性行動が大脳の学習能力に大きく支配されていることを裏付ける。
人間の性欲(大脳性欲)にとって、性ホルモンよりも外界からの視覚・聴覚・触覚といった刺激で大脳皮質が興奮、性中枢が刺激を受けて性欲・性行動を起すと考えられる。たしかに、人間の性欲・性行動が脳と性ホルモンと外界からの刺激の総和というグロスマンの言葉を裏付けている。しかし、人間の脳科学の研究は様々な問題で一気に解明されるという性格のものではないため、未だ道半ばな状況なので、現在のところ「そうだと思う」としておきたい。「性欲」に関する、脳科学や分泌学の学者の著書では、外界からの刺激として「パートナーの存在」を重要視している傾向があるが、筆者としては「性欲の説明」としては、納得させられないものがあり、あえて省力してある。
*おまけ1思春期以降の男性に見られる、四六時中の勃起現象と夢精
このような現象は、
精嚢が製造した精子でいっぱいになるために起きる。当然、精子・精液を保持し続けることができなくなり、排出するように(排出欲・性欲の一部分)下垂体に信号が送られ、フィードバックされた情報で勃起・射精を促す。一種の生理現象だが、「本能性欲」に属すると考えられる。ただし、個人差が大きく、勃起現象がない場合もあるが、精子と精液は作られており、体内の粘膜を通して体内に吸収されていく。間違っても、精嚢内で腐るなどと言う風聞は嘘である。
*おまけ2:「A10神経」と脳内麻薬
カナダのオールズやラウンテンバーグらによって、脳幹の中央部の沿って走る「A10神経」が快感神経であることを特定。この神経ニューロンのシナプスに「ドーパミン」という「脳内快感物質」を発見した。(「A9神経」にもあるらしい)
「A10神経」は脳幹から中脳、視床下部をかすめて、扁桃核を通り、海馬に至る。多くの動物の「A10神経」は脳の旧皮質で終了だが、人間ではさらに新皮質の大脳の広範囲の部分に及ぶことになる。
「ドーパミン」はアミノ酸のひとつ、チロシンからつくられたアミンの一種。チロシンという物質が麻薬の主成分なので、脳内では公然と麻薬が作られているということになる。「ドーパミン」は脳を覚醒し快感を誘い、創造性を発揮させる。これら脳内麻薬は痛みやストレスにも有効だと言われているが、検証は不十分な状況である。
また、「ドーパミン」で快感が盛り上がり過ぎるのを抑制するために、抑制神経であるギャバ神経で作られるβエンドルフィンである。βエンドルフィンはストレスを和らげる(心を鎮める)効果が高い物質といわれている。人間はストレスを感じると、脳下垂体から副腎皮質刺激ホルモンを分泌、ストレスを和らげようとする。同時にギャバ神経から同量のβエンドルフィンが分泌される。この二つの物質が相互的にストレスや興奮を癒そうとしている。なぜか妊婦は通常の3倍以上のエンドルフィンを体内で作っているようだが、何故か筆者には分かっていません。
「快感神経」はサヤを被っていない神経なので情報が拡散され、速い速度で脳に伝達されることはない。だから、これら物質による効果はじっくりと効いて来る。仮に速度が早いと、一気に快感が押し寄せて、心臓が停止したり、脳内の血管が破れたりするかもしれないからだろう。
脳内麻薬とか脳内モルヒネと言われる物質はドーパミン、βエンドルフィン、セロトニン、ノルアドレナリンなど20種類以上見つかっているが、その役割は一部分かった状況で、不思議で面白い物質であるが、この脳内物質で「人間セックス」や性欲を語るのは、「風が吹くと桶屋が儲かる」的理論展開が多く見られ、多少詐欺の臭いがする。お若い方ご用心の情報だ。
*おまけ3:人間の臭覚とフェロモン
人間の臭覚が進化の過程で退化したことはよく知れれている。人間の場合外界から受ける刺激である「におい」も大脳新皮質の機能と考えられているが外界からの臭いの受け手は鼻の中にある。この神経器官を嗅上皮(臭覚受容)と鋤鼻器官というが、人間では鋤鼻器官は痕跡的に残っているだけとされていたが、最近成人にも鋤鼻器官が残っている人間もいることが分かった。どうもこの鋤鼻器官がいわゆるフェロモンの受容体らしいのである。ある実験によると、鋤鼻器官が残存する人間においては、フェロモンに近いだろうという物質(一般的な臭いはしない)に鋤鼻器官が反応することが分かった。当然、一般的臭いではないので、嗅上皮(臭覚受容)は反応せず、大脳で感じることもない。しかし、面白いことに、このフェロモンに近い物質への鋤鼻器官の反応は、男だけ反応、女だけ反応という明確な二分化が示されたことである。例外的男女にのみ許された、楽しみ?しかし、人間のフェロモン機能はそう簡単ではない。なぜなら、人間の男女が今でもフェロモンを出しているかどうか、多くは否定されているだけに、楽しみすら味わえない可能性の方が高い。或る化粧品メーカーは秘密裏に「出ないなら、作り出せ、そして異性に振りまいてやれ」と画策、研究に余念がないそうである。


B心理学と性欲
さて、身体における性欲のメカニズムは理解出来ただろうか?
ところで心理学における「人間の性欲」はどのように解釈されているのか、気になるところである。実は筆者は心理学と親しみのないタイプなので、この分野は正直苦手なのである。しかし、食わず嫌いを理由に無視することも出来ない。
人間の心理と性欲の関係は、精神に異常をきたした患者を治療することから派生・発達した学問分野なので、心理学や精神医学の領域でも正常な状況の「性欲」について語られることは少ない。正常に性欲を持ち、正常に性行動する「普通の状況の人々」の情報には、ある意味熱心ではないことになる。しかし、その正常ではない患者の精神分析から、正常な人間だと「このようになっている」という情報が得られるってことになる。さしずめ、ここでの「さわり情報」と考えていただきたい。
フロイト博士の心理療法の手段となる精神分析が、最も特徴的に「性欲」に注目している。
人間は無意識の世界で「性欲」・性の衝動(リビドー)に支配されているという「性欲理論」、その結果、人間行動をすべて性でとらえる「精神分析」を誕生させた。
古くさいとか、間違いだらけだとか、性衝動にこだわり過ぎるなどと、色々批判の対象になっている部分もあるようだが、精神分析の祖としての地位は揺るがないものである。その「深層心理」の概念はいまだ健在であり、精神分析の多くのシーンの基礎となっている。
フロイト博士は心の変調の原因を幼児幼少期の性衝動の為せる業と分析し、「幼児性欲」という考えを見出した。当時「幼児性欲」という概念は常識的に受入れがたいものだったが、フロイトの「幼児性欲」の性欲は成人の性欲とは異なる現象における性欲を意味していた。幼児期の性欲はある意味で倒錯した性欲というもので、性感が性器に集中していない状況での「性欲」についてだったのだ。つまり、成人の性欲は脳と性器による性欲であり、幼児の性欲は未熟な脳と五感で快感を得る性欲だということ。
・口唇愛期:生まれて1歳半くらいまでは、唇や口内粘膜で乳房を吸う感覚を楽しみ、乳の味覚臭覚を楽しむ。そして、性衝動を満足させて眠る。
・肛門期:1歳半くらいからは、肛門や尿道が発達、トイレの躾が始まる。この時期になると歩行、言葉が不完全ながら可能となり、「いやだ」という意思だけ鮮明に表現するようになる。この時期になると、排便を好きな所、好きな時間にしたい欲求が芽生え、両親の希望と自分の欲求との間で葛藤を見せる。この時期に排便・排尿の快感が身につく。この快感が「性欲」とも深いつながりがあるので、重要なポイントになる。
・男根期:3、4歳になると、男女の性別を意識する。男女の性器の感覚の分化が起こり、性器への刺激による快感を発見する。この時期になると男女とも性器を何かに押し付け、或いは擦りつけると快感が走ることをえとくする。また、幼児は男女の性器の違いや子供が何故生まれるかとか性行為に感心を持ち始める。女子はペニスの不在に不公平感を感じるとも言及。
・エディプス期:4,5歳になると、異性への性欲が意識下に出現してくる。その対象は異性は最も身近な異性である両親の一方に対してとなる。同性側の親が邪魔者になるが、勝ち目のない両親との三角関係に悩む時期だと言及。フロイトはこの性的衝動を子供は自己の抑圧で乗り切ると考えた。その結果、親の態度や規範を自分の中に取り込み、内在化させる「超自我」が完成される。この頃になると、子供が社会への一歩を踏み出すと考えた。
・潜在期:6,10歳になると、社会性を認識するようになり、エディプス期での挫折で「性欲」の抑制が可能になる。学校という集団生活を経験、生活の中心が知識の習得に向かう。そのため、思春期の「性器期」が来るまで、「性欲」は潜伏する
・性器期:10歳前後から始まる思春期、第二次性徴の発現と同時に、潜伏中の「性欲」が目覚める。今までの安定は一気に崩れ、混乱の極致に陥る。「性衝動」の対象を両親・教師というもの等から、周辺の異性に関心が移動する。幼児期には不明瞭で倒錯的だった「性衝動・性欲」が俄然明確な性器中心の「性欲」へと変貌を遂げる。この変貌は相手を一個の人間・人格として感じ取れる時代でもある
以上のように、フロイト博士の幼児性欲概念は特に不謹慎だった訳ではないが、相当無理な論理でもあった。しかし、「性欲」を真正面から受止めた業績は尊敬に値し、当を得ている部分も多数ある。
筆者の独断的判断だが、フロイトの「肛門期」辺りまでが「本能性欲」に支配され、「男根期」辺りから「大脳性欲」に支配されていたと「こじつける」と多少理解しやすい。フロイトはこの分析方法で精神治療(心理療法)を行い、患者がどの段階で精神的に歪んだかなどを分析、その治療に役立てている。
その後、精神分析や心理療法はアドラー、ユング、アイゼンク、マズローらによって様々な理論が生み出され、現在に至っている。当然今でも精神医療の現場では「性欲」という概念がテーマだがが、フロイト博士ほど執着はしていないようだ。
しかし、A10神経(快感神経)の発見で、古典派などと云われているフロイト博士の理論が見直される傾向も出ている。蛇足だが、筆者の主張する、「クリトリス・オーガズム信奉疑惑」の未熟性快感説は同博士の考えと一致している。快感と女性のオーガズムの違いについては、何れ大論文でも書かなければと考えているが、あてにはならない。

C性欲の性差・男女の脳差
男性の性欲の現出はペニスの勃起という明確なシグナルがあるが、女性の性欲は現象的に明確とは言いがたい。冒頭で述べたように「女性には性欲がない」などといった意図的言説の流布によって、女性の性欲の不明瞭さが増幅されたことは、容易に想像できる。逆に、その反動としてフェミニズム、ジェンダーフリー論の勢いの中で、必要以上に女性の性欲を肥大化させている傾向もみられる。
その結果、誇大表示された「女性の性欲」が多くの女性に戸惑いを与えてしまっているようだ。「全然セックスなんかしたくない、私って異常なの?」「不感症かしら?」「クリトリスで感じなければ」などなどと、誇大表示のメッセージに悩まされることになるようだ。中には何が何でも男女差をなくそうとする、変わった官僚や教育関係者も多いらしい。
この際出来る限り科学的に「男女の性欲の性差」を解明しておく必要がある。何故?出来る限りかというと、性欲の研究=脳の研究になってしまうからである。
旧皮質中心の動物実験で証明されても、それは傍証に過ぎない。新皮質のコントロールが顕著な人間に動物実験結果全てを、単純に当て嵌めることは出来ないからである。人体実験を許容する世界はすでにないので、神経障害、性障害などを持つ人々から、逆説的情報が科学的臨床情報となってしまう。
それでもMRIなど、テクノロジーの進歩で、脳科学は長足の進歩を遂げている。医学、分泌学、心理学との連携で、近い将来男女の脳差や性行動の性差などの全容解明がなされることを期待しよう。また、脳とホルモンの関係というハードウェアーだけで「男女の性欲性差」を語ることは出来ない。文化的、社会的背景の影響を受けて確立している、ソフトウェアーにおける性差もある。
この辺の性差はDで述べるとして、ここでは、筆者が現在入手した情報をもとに、男女の脳及びホルモンというハードウェアー中心に、男女の性欲の性差を解説しておくことにする。
男の脳と女の脳は基本的構造は同じだが、各パーツやそのニューロンによっては、大きな違いが認められている。脳科学の分野から見ると、この違いが、たいした違いだとは思えないらしいのだが、こと男女のセックスとか性欲に関する分野では、大変大きい問題ととらえるべきである。
ジェンダー・フリー全盛を謳歌している人々にとっては、その論理の破綻(論理というより思想)への恐怖が迫っているのは、嘘ではないようだ。男女の脳差が全て解明されていない現状では、「ではなかろうか」的説明が多くなるのは、ある意味仕方がないが、まあ、参考程度にしてもらおう。
人間の性欲が脳を中心とした生理的ネットワークで発現する事実を否定することは、もう出来ない。ということは、脳の男女差から「男女の性欲」の差を見出すのがベターである。
男の脳と女の脳の違いは一言で、パーツの違いである。構造的には同一だが、パーツの大小やそのパーツの神経回路、ニューロンなどの違いがある。一見たいした違いではないように思えるが、緻密なネットワークで出来上がっている脳の仕組み、そこからの命令系統には、最終的に大きな差が出てくる。主な男女の脳パーツの違いは
*脳重(男の方が重いが特に性欲に関係はない。男同士の脳重差がIQと関係している可能性を示す実験があるが性欲に関係はない)
*視床下部の内側視索前野にある神経核である性的二型核(男が多く、性的覚醒中枢ではと考えられている))、視索前野にある神経核・前腹側脳室周囲核(女が大きく、ニューロン数も多く、下垂体の生殖腺刺激ホルモンとの関係が深いと考えられている)。この二つのことから男のとって重要な性機能パーツは女より大きく、女の機能に必要なパーツは男に比べ立派に出来ているということが、云えそうである。
*視交叉上核という視神経交叉の上にある神経細胞群は24時間リズムの体内時計機能を持っているのだが、男女で形状に差が見られる。男が円形で女が楕円なのである。残念ながら、現時点ではその差が何を示しているか不明
*左右の新皮質・大脳を連結する脳梁には大きな男女差が認められる。脳内の幹線高速道である脳梁の男女差は重大と思えるのだが、研究道半ばで明快な答えはない。少なくとも、このレポートにマッチした情報とは異なる、言語能力や視覚空間能力などとの関係のようなのである。
*脳梁と同じように脳の連絡をしている前交連という交連線維の束にも男女差がある。女の方が大きい。このことは脳梁と同じなのだが、この交連線維は扁桃体や側頭葉との連絡もしているので、旧皮質の情報交換度が高い可能性を示している。大脳の機能に旧皮質の影響が多く出てしまう可能性を示しているかもしれない。性欲に関しては女の方が原始的・自然に沿っている可能性を示すか?男の方は知的というか、邪(よこしま)な性欲がある?
*新皮質・大脳と視床下部の間にある大脳辺縁系はどうだろうか。ここは性行動など本能行動を調節、情動反応も司ることから快感などの動機づけに関係する部分なのだが。ここには大脳機能の記憶などの一部機能が補完的に?存在していることが注目される。大脳辺縁系の中にある海馬がそれにあたる。この記憶装置とも云える海馬や扁桃体に、実は男女差がありそうなのだが、動物実験では差が認められるが、残念ながら人間でのデータはない。しかし、快感・不快感の記憶は、女の性欲が経験者と未経験者で大きく異なることから、男女の性欲の性差の重要ポイントになりそうな部位である。
*同じく大脳辺縁系にある扁桃体の男女差(人間での実験データはないが仮説は充分成立)にも注目が集まる。ここは情緒反応を司っているが、生物学的な快・不快や恐いなどの情動反応の部位と考えられる。性的対象を見分ける機能やおいしい食べものを見分ける機能も持つ。好みの異性を嗅ぎ分ける機能もあるらしいと考えられている。本来、大脳の連合野が行っている機能の一部が委託されているという仮説が成り立つ。
*本来大脳新皮質で行われている思考機能が大脳辺縁系の海馬や扁桃体などと連携して、思考機能として動いている可能性が高くなっている。大脳辺縁系が大脳と旧皮質系との間に位置することから、視床下部にある本能・情動・自律神経にも大きな影響を与えているという推論は、事実に近い推論といえる。この重要な中間点に位置する大脳辺縁系に男女差があるであろう(動物実験では確認済み)となると、性欲の男女差の具体的相違が近い将来証明される、明確な糸口になりそうである。
ここまで調べてみての筆者の感想的見解。
たしかに構造が同じでも、男女の脳ではパーツの差がある。脳におけるパーツの男女差は、性欲や食欲、自律神経の中枢である大脳辺縁部においての働きに大きく影響しているような感じである。性の分化で判る通り、人間の原形は女であり、男はいわゆる分家人間といえる。本家は伝統や風習を重んじる傾向があり、分家は流行に軽薄・自由である。下手糞なたとえだが、男女の脳差にも同様の相違が見え隠れしている。あらゆる分野の研究者も明言は避けているが、男女の脳差、性欲差などの存在を臭わす情報を提供している。しかし、現時点で男女の脳差が決定的にどう違うかなど”ぼかし”な結論が多いのは何故か?薄々判っているが、断言しにくい社会的環境もあるものと推測する。
男が大脳新皮質からの制御が強く、女が男よりは大脳新皮質からの制御を受けにくく、原形により近い大脳辺縁部の機能が勝っている傾向は、女が男の原形という、いわば哲学的思考からも同感である。だから男の方がウンヌンの話ではない。あくまで、性衝動における見解に過ぎない。男の場合、この大脳皮質の未成長や障害、崩壊による影響は大きく、自律神経が早々にくたばるとか、勃起不全が起きたりするようだ。女の場合、その傾向が低くなり、あらゆる機能の障害を減少させることが出来るようである。
単純に性現象を中心に観察することでも、男女の性欲の差を知ることが出来る。女は脳下垂体からのホルモンで月経周期が起きる。この子宮の所有は月齢や時間(特に日照時間)と身体の関係を密にしている証拠であり、性欲の現出に無関係であるわけがない。夫婦の場合、一般的にパートナーとの関係によって性欲が喚起されるだろうが、独身女性のセックス体験時期が月経中間期に起きやすいという研究は注目できる。つまり、性欲が高まるということになるだろうし、オーガズム体験の頻度も高いそうである。排卵と性欲の関係はそれ程顕著ではなく、性欲中枢に僅かな情報が伝わるだけのようです。あくまで、外界からの刺激がメインで性欲が生まれます。ただ、性経験の有無、オーガズムの有無によって、女の性欲は大きく違うと考えられている。未経験の女の性欲は相当に怪しいもので、漠然性欲と単なる快感が混在していると考えていいでしょう。性欲なんて感じない、でも好きな男がこれほど望むなら、応対するのが愛の証などという、恋愛感情が優先しているとも考えられる。しかし、そうか女の性欲は大した事はないなどと、早合点してはいけません、性経験を重ね、深いオーガズムを経験した女の場合には、男の排出・征服欲など比べ物にならない、強烈な性欲を現出させることがある。要注意である。中には望むところという男もいるだろうが、「無理、無理、止めときなさい」なのである。そのような強烈な性欲の持主はスキンシップやクリトリスでの刺激快感で満足することはなく、常に内臓的オーガズムへの要求が強くなるもので、一度に数回の勃起を求められ、それが連日連夜に及ぶもので、到底男の勃起のメカニズムを超越したところにある性欲なのである。
それに対して、男の性欲は下品で短絡的である。未経験でも、生意気に勃起する、そして排出に向かう。パートナーが居ようが居まいが、無関係と言ってもいい。排出・征服欲など性欲以外の感情でセックスに励む男も居るのは確かだが、そのような欲求によるセックスは「性欲」のレポートとは別の問題である。また、見境なく女に向けて排出する行為を抑制するのは、大脳新皮質の為せるワザである。
ジェンダーフリーにおける男女の性欲論「性欲の性差は本能的に作られたものではなく、『らしさ』によって、後天的に作られたもの」という言説は、あまりと言えばあまりな言説で、信じる人も少ないだろうが、小学校の教諭グループに、このジェンダー・フリー論者が多く、子供が洗脳される不安を持つ親も多いと聞く。完全に解明されていないために、脳科学研究者は強弁を使わないが、性欲の性差の存在は明らかである。少なくとも「性差は後天的」という嘘に比べれば、相当真実に近いものだ。
ただ、男が能動的性欲を有し、女が受動的性欲を持つとか、男は視覚・聴覚から性欲を感じるが、女は視覚で性欲を喚起されないとか、女は子宮で感じるなどの言説には、後天的要素があることは認めよう。この辺からはDの社会学における性欲の項へ
*おまけ1:マスターズ博士の性反応における性欲
マスターズ報告(1966)によると、人間の性反応を興奮期、上昇相、オーガズム相、弛緩相と分類したのだが、性欲は何故か抜けている。興奮期にはどうしてなるのか、触れていないのである。つまり、身体的現象の観察からのレポートであり、脳科学、生理学、分泌学からのアプローチは考えていなかったと考えられる。
おそらくだが、同博士が婦人科医であったということだろう。妻である共同研究者ジョンソン女史とカップルとして、産婦人科医として、性反応を研究したためと推測できる。
「興奮期」の部分を見てみると、「快感が高まるとバルトリン腺から分泌液が増加、膣内・外性器が潤う。乳首が隆起し、クリトリスを含む性器が充血、肥大する。膣も奥に広がり、子宮は腹部にせり上がる」と表現しているが、彼らは「快感が高まる」という言葉を最初に使い、目に見えない脳やホルモン、神経細胞による「性欲」には触れていない。その後、セックス・カウンセラー・カプランによると性欲期、興奮期、オーガズム期となっているが、定番教科書?はM&Jの性反応で説明しているようだ。M&Jにとって「性欲」は周知の事実という考え方あったのだろうが、「外的刺激による快感が性欲を導き出す」という考えしか知らなかった疑いも残る。米国においてもMRIなどによる、脳への科学的アプローチは1990年から本格化している。その点で、1966年時点での「性欲」に対する認識は曖昧だった可能性もある。
今後、脳科学・医学や認知脳科学の発展によっては、性反応・特にオーガズムなどの解明が詳細になされ、男女の脳差、性差、オーガズムの性差などに新たな発見が見られることを期待したい。

D社会学における性欲
仮に男女の性欲に性差がなかったら、どのような世界が展開するか、考えただけでもおぞましい。否、面白いだろうか?避妊の失敗で国家的人口問題(少子化)は一気に解決されるであろうと考えるのは、筆者が性欲の塊の男の所為であろうか、それとも「男らしさ」に毒されているのだろうか?
現在、最も元気のいい社会学上の男女問題はジェンダー論と言ってもいいだろう。「ジェンダー」というのは、後天的に社会や文化の影響を受けて出来上がった「性別」のことである。先天的に備わった生物学的性別を「セックス」と社会学では定義している。だから上記Cまでのレポートと言葉の使い方が異なることもあるので、注意して欲しい。
ジェンダーはいわゆる「男らしさ」「女らしさ」という望まれる性・社会通念に対して異を唱えている。セックスにおける性差とジェンダーにおける性差を混同するなという言説である。正統派のジェンダー論はセックスとジェンダーを明確に区別しているが、ジェンダー・フリー論などになるとセックスとジェンダーの境界線が失われ、男も女も人間、故に全てが同じ、何もかも平等が正しいといった、多少奇妙な方向に走り出しているグループもあるようだ。
たしかに、「男らしさ」「女らしさ」という社会からの押付けで、ジェンダーが抑圧されいる現実は相当ある。一部イスラム教社会の習慣や女性器切除などの風習は世界全体から見ると例外だが、キリスト教社会や日本にもそのような抑圧、強圧的ではないが社会的要請が個人にプレッシャーをかけている現実はあるだろう。しかし、このようなものの中には、民族や国家の歴史に根差している文化としての側面も尊重される必要もあるわけで、議論の尽きない問題でもある。
レポートの性格上、ここでは日本の社会学上の性欲を中心に考え、参考にしてもらうことにしよう。
まずは、「性欲」という概念がいつ頃からあったのかということになる。類人猿の時代からセックスにおける性欲は何らかの形で存在していた。それが人類によって、より鮮明に顕在化してきた。このように考えると、人類の歴史が始まって以降、性欲はあったわけだが、社会学の概念として一般化したのは、日本では明治30年頃のことである。勿論、万葉集など古典文学から西鶴文学に至るまで、「性欲」は文学のテーマとして、常に主役を演じてきている。
しかし、ここでは社会学上の性欲をレポートする視点で考えを進めたい。横路にそれる方が楽しそうだが、そうもいかない。残念ながら、社会学上の性欲を追いかけていくと、明治、大正、昭和の「性の悪しき言説」を素通りすることが出来ない。日本における近代という世紀は”欧米に学べ”と”封建文化の破壊”が国家的パワーの源泉であったため、あらゆる”トンチンカン”な言説やご都合主義の科学などがまかり通り、キリスト教文化と無宗教文化が混在と混沌を繰り返し、それを未経験者たちが、寄って集って歪曲した時代でもある。フェミニズム論者に、この世紀の話を持ち出し議論する好機を与えているともいえる。
しかし、社会学上の性欲概念が明治から始まった以上、当然議論のテーマにのぼることは避けられない。本来は江戸以前の日本の性文化こそが、社会学上比較に重要なはずなのだが、残念ながら「養生訓」「女大学」などの社会学的文献も少なく、研究の対象とはなり得ないようだ。文学における性文化を引き合いに出すこともできるだろうが、文学と社会学を同列で論じるのも乱暴である。ということで、近代における日本の性・性欲から、解説することになる。
いわゆる「性欲」という概念と言葉が一致して使用されたのは、日本では1900年のことである。「西田の哲学と鈴木の禅学」と並び称された禅哲学者・鈴木大拙の「性欲論」が初めてである。その後、頻繁に誌上に「性欲」という言葉が教育・哲学書に現れる。文学では鴎外、花袋、啄木、二葉亭、など等がテーマ化する動きを見せている。
当時は、「生殖欲」と「性欲」は別の概念として捉えられていたようだ。全体として、「生殖欲に根差す性欲」は善、「欲情に根差す性欲」は悪といった様相を示している。

性欲の男女差は「男が強い」説が圧倒的優勢だったが、中には女の性欲の強さを同等以上と認めている研究者もいたようだが、その言説は葬り去られたようである。否、アンダーグラウンドで脈々と生きていたとも言える。市井の研究者の多くはこのことを知っていたようだが、権威がなく、マイナーな世界でのみ生きていたようだ。この頃から、処女の性欲と経験妻の性欲の違いを指摘している。市井の研究者の方が、現象に敏感だったと言える。
次にこの時代全体に「買売春」の是非が議論されている。当時の「性欲」は男の性欲をどうするかが中心だったので、その「排出方法」が議論の対象になっていた。つまり、「公娼の必要と廃止」「マスターベーションの是非」「禁欲の功罪」「性病の防止」である。
男の性欲は押さえ難いものという主張が優勢で、禁欲は問題外とされたようだ。方向は「買売春とマスターベーションどちらが良いか」とか「男色と買売春のどちらが良いか」など、真剣に議論していたようである。当時はマスターベーション有害説が圧倒的に優勢だったので、結論は見えていた。健康管理を国家が行う「公娼」の存在は有意義であり、子婦女に感染させない為にも良いことだという、流れが出来た。ちなみに、マスターベーションが善と認められるまでには、有害限定説(過度は毒)経て、1980年くらいから善に変容していく。しかし、女のマスターベーション有益説に至るのは、米国のフェミニズム運動の蜂起まで、待つこととなる。
全体的に当時の日本の性生活環境は、マスターベーション、同性愛、婚前性交に規制的環境が出来ていった。買売春も本当はいけないが、溜まった物は出す手段として、最も弊害が少ないからOKという、必要悪的認めれ方だったようだ。また、マスターベーション、同性愛は色情狂と同列で変態性欲と位置づけられていた。
1920年頃から、婚姻関係のおける性行為を善とする傾向が強まり、貞操とか純潔という概念が頭角を現す。概ねこの傾向は女に遵守させる勢いが強く、男には出来れば守りなさいみたいな雰囲気があったようだ。この頃から「夫婦和合の鍵はセックス」という風潮が出来上がる。そして、オーガズムの存在も、一般に知られることとなるのだ。戦後間もなくの1946年になると、「完全なる結婚」(ヴァン・デ・ヴェルデ)や後の「性生活の知恵」(謝国権)によって市民化していくことになる。
1960年後半から、米国ではフェミニズム運動が盛んになり、一種女性の立場の階級闘争が展開して行く。これはマルクス主義の影響を大きく受け、また困ったことに人種問題や貧困問題で行き詰まりを見せてしまうことになる。19世紀後半に起きた女性参政権獲得などのフェミニズム運動に比べ、不自然な運動であった。しかし、女がセックスにおいて男からの独立を企む方法論は、運動の消滅にも関わらず元気に生き残ったのだ。「自分の性器をよく見よう、クリトリスで快感・オーガズムを」のメッセージは女性の性生活に、大きな波紋を提供した。本家が死滅し、ジェンダー論・女性学に姿を変えた今でも、このメッセージだけは、元気に生きていると言うのが、現状である。素晴らしい?都合のいい?情報だけは何時の世も残るものである。
その証明になるかどうか判らないが、1977年のハイト・レポートは画期的で、サイレント・マジョリティだった女の性生活情報が、一気に噴出、世界を圧倒した。おそらく、女のマスターベーションの公式認知年代はこの「ハイト・レポート」の時期と一致する。その意味では、著者:シェア・ハイト女史はノーベル平和賞の受賞に値する。(少し冗談が過ぎるか?)
この「ハイト・レポート」は19ヶ国で翻訳出版され、世界的ミリオンセラーである。しかし、実はこの「ハイト・レポート」には、翳の部分があるとの噂も絶えない。同女史がフェミニズムの強力な運動家であり、意図的に告白を編集した疑いが持たれている。最終的にイデオロギー的臭いがしないこともないのは事実である。特に「性における男不要論」「性革命」としてのクリトリス信奉と新しいセクシャリティの形成である。目的が女性の地位向上だとしても、クリトリス刺激でオーガズムというマスターベーション推進論に、多くの女性は眼を剥いたに違いない。男は「嘘つきアンケート」と見るものが多かった。しかし、その後、イデオロギーなど全く無色の日本の雑誌モアが同様の日本女性の告白本を発売、日本のセックスライフの潮流創りに、拍車をかけた。
1900年から1980年頃までの日本の性欲についての社会学的背景をランダムに、しかも省略しながら解説したが、全体的状況の把握には役立ったと思われる。
それでは、その後上述の様々な日本人の「性欲」関連の諸問題はどのように推移しているのだろうか?考察は無理なので、推察法で検証してみることにする。
・マスターベーションの有害、無害、有益説
マスターベーションの有害説は、明治の欧米医学・心理学の猿真似から生じた言説(自慰は万病のもと)だったが、国家プロジェクトレベルで有害を唱え、今になっては笑えない嘘八百が並べられていた。或る社会学者によると、「養生訓」の江戸時代から、自慰有害説が存在しており、明治時代の無知蒙昧が全てではないという説もある。しかし、筆者は江戸以前の国民の多くが「養生訓」に親しむ生活環境にあったと考える部分に無理を見出す。つまり、「日本は昔は性におおらかだった」という通説を否定する根拠としては、脆弱すぎるからである。横路に逸れたが、次に部分有害論が出始める。これはそれ程難しい問題ではなく、欧米の医科学が部分的に有害の一部を削除したことに由来して生まれた説、つまり修正有害論である。戦前にもマスターベーション無害論は存在していた。大正時代には無害論の本も発売されたが、当局によって敢え無く発禁となったり散々であった。諸説があるだろうが、マスターベーション無害論が我が国で市民権を得るのは、やはり戦後の民主主義、自由主義の輸入によってと考えるのが妥当である。1945年頃になると、欧米の医科学の進歩が欧米の宗教的、ナショナリズム的圧力を、科学的実験、証明、追試の過程で押しのけていたマスターベーション無害説が怒涛の如く雪崩れ込んだと素直に考えるべきである。また、戦前まで幅を利かせていた倫理・道徳、ナショナリズムが全否定される興奮が国民に存在し、戦前の権威を打ち壊す機運が高まっていた。
こうして、マスターベーションは善玉の市民権を得た。そして「ハイト・レポート」などフェミニズム運動の生き残り言説として、女性のマスターベーションも市民権を得、この世に姿を現したのである。
今や、セックス情報、相談などにおいては、「マスターベーションしないことは変」という風潮まで行き着いている。しかし、最近になって「マスターベーションと性障害」などの問題がクローズアップしているのは面白い
・セクシャリテイ
社会学的には性欲は本能から、性は人格という過程を辿っている。そこから所謂セクシャリティという概念が出てくるが、これが何とも複雑である。マスターベーションもひとつのセクシャリティだし、同性愛もセクシャリティである。勿論異性愛もセクシャリティである、個人が存在すること自体、セクシャリティであるのだ。どうも判らん、いずれ、追加する項目に入れたおこう
・公娼の廃止
性が人格である以上、人格を利用する商売が国家的に存立すること無理である。男の性欲に重きを置いた、性欲本能説やマスターベーション有害説から、必要悪のお墨付きを貰った「買売春」は戦後も相当期間、そのまま存続していた。戦後にあらゆる価値観がガラガと崩壊する中で、「売春」はしぶとく生き延びた。何故なのだろう。
1945年終戦、46年1月にはGHQによって「公娼廃止」が発令されている。日本の公娼の歴史は筆者の知る限り、鎌倉時代から営々と続いていたものであるがGHQによって750年間の歴史に幕を閉じた。
しかし、公娼がなくなればアングラな世界が元気になる。公娼の廃止で「赤線」「青線」地帯、特殊飲食店が激増する。東京都は現在の「淫行条例」と似たかたちで「売春取締条例」を発令。吉原の女性は組合をつくり、売春禁止に反旗を翻すものの、婦人矯風会は売春禁止法制定に全力を上げ、1956年売春禁止法の公布に至る。ここからは私娼の世界である。その頃から「トルコ風呂」なるセックス産業が営業を開始、性欲処理施設として脱法商法が出現している。トルコ風呂の全盛に「風営法」が改正、名称を「個室サウナ」とする。次にピンクサロンが登場、ラブホテル、ノーパン喫茶、ホテトル、デートクラブなどと手を変え品を変え、性産業は永続する。問題なのは1982年の「愛人バンク」の出現である。ここからは、素人女性の売春が時代の流れを作り出すことになる。この辺をどう考えるかが重要だ。婦人矯風会の考えたイメージの売春と異なる売春概念が出現したのである。その後、この流れはブルセラ、デートクラブ、援助交際とつながる。その結果「淫行条例」が各都道府県で発令、必死の攻防が繰り返されている。ここで注目すべきは、性を売る女性の年齢が、年毎に低年齢化していくことである。戦後の風聞に、進駐軍の性欲から、一般の女性が逃れられるのは「パンパン」のお陰ですといったことが、実しやかに流れたらしいが、売春年齢の低下は、これとは全く別物の、次元の異なる私娼問題があるように思われる。買春行為で買う大人を罰するのみから両者を罰することになったが、基本的に低年齢であろうと、その行為が売春であることを明示する問題が残される。買春という言葉には、身体を売った側に罪の意識は出てこない。むしろ被害者意識を助長する、ゆとりの教育の一環と勘違いしてしまう。
・フリーセックスの許容
まず「フリー・セックス」などと曖昧な概念を勝手に使用していることを反省。言い訳をすれば、多少古くさくなったが、巷で使われていたので市民権のある言葉だと考えていた。しかし、その意味するところは漠然としていたのはたしかだ。誰とでも、何時如何なる所でも、セックスをしてもいい?婚前性交OK?愛していれば、婚姻以外のセックスも可?子供も大人も自由にセックス?セックスは無料?乱交のこと?
チョットだけ調べてみたが、どうもフェミニズム運動中に生まれた言葉のようである。男も女も性差はない、同性愛も立派なセックスなど、ジェンダーはフリーという発信源に行き着く。日本においては、この意味合いがヒッピーの自由なセックス観や戦後の自由主義の風潮と混ざり合って、メディアが「フリー・セックス」という言葉を氾濫させたようである。注目は婚前交渉OKが結果的に、貞操・純潔の価値観を低いものした点である。特に、処女・非処女の意味合いが大きく変容した。
整理すると、セックスは個人に属するものであり、なんびとによっても犯されることのない、人権(人格)のひとつである。つまり、法の範囲において、その使用は自由であり、愛があろうがなかろうが、他人にトヤカク言われるものではない。しかし、その結果責任もその個人に帰属する。その意味では、上記の?は自己責任の範囲ですべて含まれる。
NHKの意識調査によると、「フリー・セックス」の許容は男女とも5%未満で、実は市民権を得ているとは思えない。通俗雑誌の煽りに乗せられているだけのものかもしれない。大多数の男女が「愛あるセックス」に肯定的で、結婚前提でのセックス肯定を上回っている。
問題なのは、「愛あるセックス」の「愛」が実は問題なのである。哲学論争になりそうなので、深く関わる問題にはしたくないが、「愛」という言葉くらい、つかみ所がなく姿かたちを変えるものは他にない。漠然と「愛」というならば、物を愛する・飼い犬を愛するから人間を愛する、異性を愛する、愛人を愛するから「好き」まで含まれてしまいそうである。「彼、彼女を好きだから」で充分である。となると、「好き」なら「QヘルスのH嬢を俺はこよなく愛している」という、贔屓風俗嬢への「心情」も「愛」の一種である。勿論、愛人を愛することは、当然含まれる。つまり、「愛」という曖昧なものを認める傾向は、「フリー・セックス」を結局認めることになってしまわないか?筆者はどちらでもいいが、「フリー・セックス」が「愛がないセックス」と言われると、否定するだけで、言葉のトリックだともいえる。以上のように考えると、「フリー・セックス」を知らないうちに認めている、人々が非常に多いことになる。
結局、結婚、婚約など目に見える事実関係以外、「フリー・セックス」かどうかを判定する基準など無いのと同じなのではないか。結婚を前提とした男女のセックスを肯定した時点で、「フリー・セックス」的男女関係は、事実的に容認される運命になったと考えることができる。その流れではないかもしれないが、現在の10代世代のセックス観(半数の男女はスポーツの乗りでセックスを謳歌し、半数が通称「愛あるセックスを求め彷徨っている)、「愛」の意味など研究に値す
・コミニケーションとセックス
この「コミニケーション」も「愛」同様いい加減な言葉である。筆者も確かにいい加減に「コミニケーション」におけるセックスなどと表現しているが、これもまた反省である。セックスにおける「コミニケーション」というのは「愛情の身体確認」と言える。本能によるセックスに対比する「コミニケーションとしてのセックス」であり、人間特有のセックスということになる。この定義の拡大解釈が「愛あるセックス」と「愛のないセックス」の対比になっていく。売買春は一歩的に「愛のないセックス」として否定され、男のマスターベーションの変形・道具の使用に過ぎないとなる。つまり、売買春における女は物となり、性は人格という考えから逸脱したことになり、悪玉なのだそうだ。この考えには多くの賛同者と多くの懐疑をもつ集団があるようだ。筆者はフリーセックスの許容でも述べたように、「愛」の不確かさの点で、売買春イコール人格のない道具・女の体・風俗従事女性の構図には異論がある。しかし、このレポートでこれ以上この問題に執着すべきではないと考える。社会学上の性欲の考え方を提示するだけが目的なのだから。
不思議な点は、「コミニケーションとしてのセックス」が人間にとって重要なのだから、本能・生殖とは目的を異なっても当然で、性交そのものも必要とは限らないなどと、ドンドン話が遠くに去っていく、詐欺のような論法に出会う。挙句の果てにオーラルセックスのテクニックが重要になったり、男のいらないオーガズムの推奨と、ナンジャコリャの世界が展開するに至るは、類推・拡大の域を逸脱している。
勿論、男女の親密な関係性を論じた、ギディンズの考えは性における民主主義を唱えたもであり、性交なしにコミニケーションがとれる、オーラルセックスは民主主義だなどと、言うわけはないのである。
「コミニケーションとしてのセックス」が人格に関わる問題で、「愛のあるセックス」だけが肯定されるとして、愛が欠けた夫婦のセックスはどうなるのだろうか。愛がないのならするべきではないのか?これはこの考えで行くと「家庭内売春」「家庭内レイプ」である。
どうもここまできて、この社会学上の「コミニケーションとしてのセックス」が少し怪しい感じがしてくる。脳と性欲の関係で述べた「本能性欲」「大脳性欲」におけるコミニケーションと相当の開きが見えてくる。科学者が一般用語として使用したコミニケーションという言葉が、社会学上では、やたらと広がりを見せてしまうのだ。この辺が社会学とか哲学の厄介なところなのかもしれない。
男女の愛情表現にセックスが重要な位置を占めていることは確かである。生殖のセックスは科学の進歩で身体外での「種の保存」も可能な段階に入っている。基本的には卵子と精子があれば事足りる。代替が一切効果がないのが、「愛情」におけるセックスである。しかし、こちらの方も強力ではない。逆説的に考えると、愛がある場合セックスしなければならないのか?という疑問である。男女が双方納得していれば、セックスをしなくても愛は成立するだろう。せいぜい、男女の愛情表現として、セックス・性交はひとつの、そして安直な手段なのかもしれない。この観点から考えると、オーラルセックスも手をつなぐことも男女のコミニケーションとしての範疇に含まれる。しかし、セックスの絶対的成立要件としては貧弱である。本能としての性欲は、男女異質同等に快感という欲求が存在するだろうが、人間特有の大脳系性欲・コミニケーション・セックスは期間限定の要素にも思えてくる。つまり、絶対的ではないものとしての、役目なのかもしれない。バーチャル・セックスを持ち出すのは極端だろうが、セックスとコミニケーションの関係は今後大いに変化し得る言説だといえるだろう。抑圧的に成立した純潔・貞操思想とは違うだろうが、社会からの要請によってはマイナーな存在になる可能性も秘めている。スポーツにおける快感のように、汗を流す喜びのためのセックスが正当化されることもあるだろうし、気ままに行えるマスターベーションこそが自己完結のスタイルになる場合もありうるのだ。生殖としての欲望、愛情表現のためのセックスに別れを遂げる、人類のセックスは何処に向かうのだろうか・・・
・セックスレスと性欲
セックスレスという言葉は精神科医・阿部輝夫氏の命名だ。定義は概ね「男女の特定のカップルでありながら、1ヶ月以上セックスをしていない、或いは年数回しかセックスしないカップル」を指すらしい。しかし、社会学上のセックスレス・カップルは「別にセックスしなくてもいい」カップルがテーマとなる。故に、器質的障害や心因性障害でセックスレスになっているカップルの「セックスレス」は除外される。また、医学上ではないが、仲が悪くなったカップルのセックスレスも除外される。
社会学上の興味は「別にセックスしなくてもいい」カップルの存在である。実はこの新しい定義の信頼できるデータが不足している。当然のように、対比するデータもない。何故なら、この言葉自体が医学レベルから発生したために、データーの光は、その治療目的に作られている為である。NHKの調査によるとカップルの19%がセックスレスと答えているらしいが、何らかの医学的理由が存在しているカップルを含むデータなので、ここでは参考程度にしか出来ない。ただ、他の新聞雑誌などのデータを重複させることで、無理矢理10代20代のデータを類推すると、「セックスはそれほど楽しくない」と考える男が5%、女が19%程度いることが判った。
この数字が多いのか少ないのか、それも分からずにセックスレスの社会学上の意味を考えるのは、相当の暴挙である。しかし、恐れずに突き進もうではないか。
「セックスはそれほど楽しくない症候群」の男女は、「セックスは面倒だ」「セックス以上に楽しいことがある」「マスターベーションに比べ疲れる、汚れる」などという理由が述べられている。
当サイトの主張でもあるように、セックスが文化である以上、セックスレスも何らかの文化的影響を受けているに違いないという、仮説に立つしかなさそうだ。したいのに出来ない群は社会学のお客様ではない。初めから「セックスなんかしなくてもいいよ」群がお客様なのだ。
社会学からすると、人間のセックス源泉である性欲が、食欲や睡眠欲に比べて生存を脅かす本能ではない部分に光を当てる。性欲が本能ではないとまで言い切ることはしないが、確かに食欲や睡眠欲よりは階層が低い感じはする。しないと死ぬものではないのは確かである。データを離れて考えてみると、男女のカップルがセックス中心に関係付けられる時代は全盛期を越えたのかもしれない。
人間のセックスがコミニケーションという要素を持つことが、動物の性行動との大きな違いとしてクローズアップしてきたが、少々風向きが違ってきているようだ。その傾向は、まだトヤカクいう段階ではないだろうが、趣は違ってきている、無知蒙昧に全てを信ずることに躊躇いを憶える。
「愛あるセックスの肯定」「婚前性交の認知」「結婚前提ではないセックスの黙認」など、性の社会学が漸く追いついてき、性欲の文化的側面を解釈し始めた。しかし、これからは「セックスしなくても男女は親密になれる」という、異質な性現象の参加で「性は文化である。故に社会学の活躍が待たれる」といった流れに混乱が起きる可能性が出てきた。飛躍はあるが、セックスというものが、生殖、男女の親密性(コミニケーション)から逸脱していく奇妙な現象が起きることになる。こうなると、人間のコミニケーションとしてのセックスと云うものが独立した概念ではなく、もっと上位階層にある文化レベルに吸収される考えが生まれてくる。
つまり、文化的に男女のセックスは快感を求める人間の欲求のひとつになってしまう可能性があるということだ。音楽を聴く、猛スピードで走る、ゲームに興じる、出世する、金持になる、虚栄心を充たす、知識を吸収するなど等、いわゆる自己実現欲求による快感のひとつになることも考えなければならない。
種の保存・生殖欲・本能的性欲が取り残されるが、この性欲も人工授精などで代替できる。女の妊娠も回避可能である。となると、そこには哲学的快楽が待受けている。「性の歴史」は「快楽の歴史」の一部を構成する要素に成り果てる。当サイトも店じまいである。
どうも最後の方はファンタジー社会学になってしまった・・・


以上の異なる学問等の領域から得た情報を筆者が感を働かせて得た結論「性欲総論」である。当然だが多少の矛盾は薄々知っている。そもそも全てが証明された欲望とは言いがたい「性欲」この程度の認識で充分”早くベットインしろよ!”と怒りの読者の顔が目に浮かぶ。しかし、ベットインに至るには、長い道のりが待っていることは、目次を見れば歴然としている。セックスに焦りは禁物である
by 饗庭龍彦

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