(5)恋愛とセックス










一晩一緒にすごし、「セックスした女は俺のモノ」、この考えは30年前までは通用した。いまだにこの考えを信じている男がいるようだが、それは間違いだ。最近ではたくさん恋愛して、たくさんの男を経験した方が幸せになれるという考えが主流ですから、女性もセックスをする理由さえ見つかればチャンスを見逃さないようです。
この女性の性参加意識の変化が最近の男たちには難物になりつつあります。恋愛をしてセックスをするという単純な図式から、恋愛に見合う素敵なセックスを望む女性が増えてきていることです。つまり折角恋をしていた男が下手糞なセックスをすることで、ガッカリの男に格下げされるリスクが増えてしまったのです

前述3「男女の心理とセックス」と重複する部分も多くなります。どのような状況で恋に落ちたか別にして、男女が恋愛状態になった以上、セックスをする関係になるのは時間の問題です。中には恋愛とセックスは別物だという主張もありますが、多くの男女における恋愛にはセックスが同義語のようにセットになっています。セックスはするが恋愛はしない・セックスをした男女が恋愛に至らないことはあり得るでしょう。しかし、恋愛はするがセックスはしないとうのは、、一般的にその恋愛自体が成立しません。
特に男性はオスの名残として、多くのメスに精子を注入する欲望を持っていますから、誰よりも一時でも早く、メスに精子を注入したい遺伝子がプログラムされています。(男性が意識しているとは限りません)ですから、恋愛モードになったら是が非でもセックスがしたくなってしまいます。いえ、時には恋愛モードでない場合でも、問題さえなければ見知らぬメスに精子を注入しておきたい欲求を潜在的に持っているといっても過言ではありません。極端な言い方ですが、あたり構わず精子を振りまくようにプログラムされているのがオスです。ですから、恋愛時でなくてもそのレベルですから、恋愛時であれば当然のごとく、セックスを求めます。
しかし、だからといって男性が現実にこのような遺伝子プログラム通りに行動するとは限りません。それは人間が大脳の動物と云われる所以です。恋愛モードにありながら、男性が中々セックスモードに入らない場合、女性は相手男性の性機能障害などを疑うようですが、必ずしもそれが全てではありません。
時には極めて許容範囲の広いオスのメス選択肢から外れるメスも出てきます。また、セックス=結婚の観念があれば、相手の女性自身が社会的結婚に値するか迷っている可能性もあることを忘れてはいけません。しかし、社会的制約が緩くなった現在、「生理的に不愉快な女性でない限り」シチュエーションさえ整えば、その女性とセックスしてしまう傾向が強い動物だと言えるでしょう。
初めのうちは「可愛い顔」「大きなオッパイ」「綺麗なプロポーション」「優しい癒しな感じ」など、女性の外面に拘りますが、このこだわりは時間の経過や状況で容易にハードルを引き下げ、当初では考えられなかったレベルまで落ち込むのが現実です。
男性の浮気が女性の浮気に比べ多いのも、この辺に原因のひとつがあるものと思われます。社会的言い訳としては通用しにくいものですが、意外と女性が最終的に男の浮気を許す傾向には、この条件反射的浮気(ただのスケベ心)を知っているのかもしれません。「愛してもいないのに、男って動物は、もうまったく」などと納得して、許してしまうことも多いようです。しかし、最近では男性の女性化、女性の男性化傾向も顕著ですから、男性諸君は自分に都合のよい解釈は怪我の元です。
それに対して、女性はメスとして妊娠というリスクと子孫を残す責務を負いますから、メスとしての遺伝子プログラムは当然強く逞しいオスの精子を受入れようとします。人間の女性もこの名残かと思われますが、注入する精子の持主の男性に様々な条件をつけようとします。男性同様に大脳機能で判断されるファクターが中心にありますが、その選択許容範囲は男性に比べて相当厳しいものになります。男性は自分の好き嫌いのレベルをご都合主義的に変化させる傾向を持っています。それに対して女性は男性を選択するファクターを簡単には変化させません。メスの遺伝子プログラムによる本能だけでなく、社会的価値判断も動員され、相手の男性を選択します。心理的には「愛されている」という大変曖昧な精神的結びつきの確認に苦悩することになります。
セックスそのものに対しても「愛の証」「コミニケーションとしての手段」「愛の確認」などという、自分がセックスする理由が存在しています。
女性をセックスモードに導く能力に長けている男性の多くは、この女性がセックスをする理由付けを誘導的に引き出す能力を持っています。相手の女性の性格を見極めて、女性が身体を許す気持になれる誘導的態度や言葉を駆使し、早々に始めての女性の心をつかみ、肉体をものにします。勿論、その男性のたくらみを見破る賢明な女性も増えてきています。中にはたくらみと知りつつ罠に嵌り、それを楽しむ高度な恋愛上手な女性もいるようです。
男性の恋愛の対象条件は広範囲であり、セックスがしたい範囲となると、人類の数からみて無限大といってもいいくらいになります。男性の恋愛やセックスの条件が女性の外面に偏っているともいえます。
それに対して、女性の恋愛やセックスの条件は外面プラス内面に条件がつきます。外面については男性同様、変幻自在でどうにでもなる傾向があります。デブが大嫌いだった女性が「なぜか愛してしまったの」という理由で、大嫌いだったデブ君とセックスをしてしまいます。つまり、女性にとっての恋愛やセックスにおける条件は内面が重要視されていると言うことができるようです。
女性は恋愛におけるセックスは「愛する男とのコミニケーション」であり、性器の結合が必ずしも目的ではありません。接触しているだけで、性的にはかなり満足な状態です。にもかかわらず、男性は必死で性器を結合、女性にオーガズムを与えようとしますが、そう簡単にオーガズムが訪れることはめったにありません。逆に痛みを感じたり、乱暴な男の性格を垣間見たりしてしまいます。しかし、ほとんどの女性は「愛する彼が望む行為」として受入れ、徐々にそのセックススタイルの中から、自分の好みを見出しているようです。
不思議なのは恋愛そしてセックスの結果、男女の関係が微妙に変化します。この微妙さは実は非常に重大で、男女間の質の転換とも見られます。
恋愛を通じてセックスに至った場合ですが、男性はセックスにおいて相手の女性より、優位な立場に立とうとします。そのためには、女性にオーガズムを得てもらう必要があると考えます。自分とのセックスに満足することで、女性の心も身体も独り占めできると思い込んでいるようです。そうすれば、もう他の男に目が移る心配もない。今までのように、卑屈になってまで女性の機嫌を取る必要から解放されると思うようです。
30年ほど前までは、肉体関係の成立と同時に、男性は恋愛ライフスタイルの中心にセックスをド〜ンと据えてしまいます。以前のように多くの言葉や行動で、相手の女性の関心を引こうという努力は陰をひそめます。デート=セックスというスタイルが日常化していきます。
しかし、女性の純潔の意味が失われ、比較的自由にセックスが出来るようになった現在では、相手の女性と肉体関係が出来たというだけで男性に安住の地を保証しなくなってきています。つまり、人間関係におけるセックスの地位が低下してしまったといえるでしょう。
女性も昔のように、セックスをしてしまったことで、後戻りできないような心境にはならなくなりました。「肉体関係成立=愛されている」といった幻想を抱く確率は極端に低下してきました。君子豹変するようなら、さっさと別れることも出来る時代です。その男性との恋愛もセックスもリセットされてしまいます。(現実には多くの葛藤があるでしょうが・・・)
たしかに現在の恋愛事情の方が自由で正しいのかもしれません。多くの男性や女性を知ることで観察眼は養われることになります。そして、自分にとってより相応しいパートナーを見出す過程は、一見理論的です。
しかし冷静に考えてみると、そもそも成立からして曖昧な恋愛経験を重ねたからといって、観察眼が養われるのかどうか疑問です。難しい理由づけを別にすれば、男性にしろ女性にしろ、恋愛モードに入る入口は「自分の好み」に拠るところが大きいわけです。ですから、「自分の好み」が変化すれば別ですが、変化しない限り、何度経験しても同質のパートナーを選択する可能性は高いでしょう。
「別の好み」で次のパートナーを選べばいいのでしょうが、スポーツセックスでもない以上、恋愛モードに入る「好み」がそうそう沢山あるとも思えません。
上記は現在の恋愛とセックス事情の一例ですが、「自由に恋愛できる」「好きならセックスできる」という環境は我々に心の自由と性的自由を与えましたが、多くの問題を提起してもいます。自由は自己責任を求められ、自ら「方向指示器」を身につける義務を与えているわけですが、この「方向指示器」が簡単に見つけられないのが現実です。
その「方向指示器」として「恋愛」「セックス」関連の本が売れるわけですが、おそらく自分にピッタリのマニュアルなど何処にもないのですから、見つかるわけはありません。何せ、人間は全て違うのですから・・・自由社会とはそういうものです。自分のマニュアルは自分で努力して作りましょう。
その点では、30年前の日本の恋愛セックス事情の方が楽だったでしょう。なにせ、恋愛モードからセックスモードまでの時間や手間は苦労しますが、その後が男女共に楽だったでしょう。肉体関係ができたら、兎に角一心不乱にセックスに励むことになります。現在のように娯楽も少なく、情報も氾濫していませんから、セックスモードに入った恋人同士は、そうするのが当然とばかりに日夜セックスに励みます。その結果、知らないうちに二人はセックスの熟練者になってしまうのです。早漏、短小の情報も少なく、オーガズムの情報も少ない状況ですから、女性も少し痛いのは当たり前くらいに思ってガマンしてしまいます。そのうち好くなるんだ、などというお題目を信じる環境があったのです。
その代わりと言っては何ですが、運が悪いと(無神経な男と出合ったことで)一生オーガズムなんか知らず終わることもあります。しかし、逞しい妻であり母である女性は、セックス以外のシーンで様々なバリエーション(子育て・自宅購入・マイカー・買物・温泉旅行など)の陶酔(オーガズム)を得る人生を送っているに違いありません。
たしかに、女性が人生でオーガズムを知らなかったことで、どれほどのデメリットがあるのか推し測ることは容易ではありません。貧乏と不幸の連続でオーガズムを知っていたから、何か得なの?と聞かれて、まともな回答は出せそうもありません。
最近では少数派でしょうが、結婚までは純潔を守りたいと考えている女性に対して、それじゃ恋愛ではないと怒り出すのは、その恋愛を壊すことになるでしょう。女性の夢を尊重しつつ、自分の当面の目的を達成する手段を考えるしかありません。せめてペッティングとフェラチオまでの到達を目標に努力する方法がベストです。最近話題になっている未完成婚(セックスで何度もチャレンジするがペニスを膣に挿入できない)などという現象に出会うカップルは真面目でちょっと保守的な人々に襲いかかるようです。このようなカップルの場合、結婚前に「性器見合」をするわけには行かないでしょうが、女性はハード・ペッティングでペニスの大きさや勃起強度を確認する位の芸当は必要でしょう。男性は指の一本くらい膣に挿入、膣の柔軟性と潤滑度くらい確かめるべきかもしれません。それも無理なら、そんな悲劇に出会わないよう祈るか、さっさと別れて次の恋を探すのも選択肢でしょう。
逆に、恋にも愛にも関係なくセックスをすることを咎める必要はありませんが、粘膜の結合だけに終始するセックスが身についてしまうと、精神的に恋愛という精神構造を根本的に失う危険はあります。しかし、それに気づくのはセックスがそれほど重要ではなくなった中年期に訪れるので、実生活では支障とはならないようですが、他人を愛するプロセスの経験不足があらゆるところで顔を出し、世渡りの下手な生き方をしてしまう傾向は残ります。
男女が出会い、恋愛し、セックスをする。恋愛という、いわば接触欲のぶつかり合いですから、身体の接触がエスカレートしてセックスに至るのは、当然の帰結です。勿論、誰からも何処からも保証されているものではありませんから、恋愛してセックスすることで、幸福になるとは限りません。統計は知りませんが、多分悲劇を味わう回数の方が多いのではないでしょうか。恋愛の終着駅は「恋の破局」と「めでたく結婚」の二つに分かれますが共に恋愛が終わるのが現実です。
最近では男女の出会い、好感を抱く、二人でデートをする、初めて手をつなぐ、初めてキスをする、ペッティングへ移行などといった手続きが相当省略されるようになっています。二人のどちらかの部屋などでは、キスから軽いペッティングくらいまでは一度に進行するようです。中には勢い、初めてのデートで挿入にまで至る男女も多いようです。恋愛とセックスのプロセスは特に重要ではありません。要は恋愛した以上、何時の日かセックスをするという事実が重要です。当たり前のことのようですが、念のため。
プラトニックラブや純愛はどうなるのですか?その答えは、それは恋愛ではないということです。プラトニックラブはプラトニックラブであり、純愛は純愛です。恋愛ではありません。
by 饗庭龍彦

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